2009/04/05

EF62形












今から24年前、新子安駅のホームでカメラを構えていると、EF62形電気機関車を先頭にして、スロ81系お座敷列車がやってきた。
 EF62形はもともと信越本線用の機関車であったが、1984年2月のダイヤ改正から、荷物列車牽引用のEF 58形の代替として、約半数が下関運転所に転じて来ていたのだ。
 荷物列車の運用の間合いを利用して、団体臨時列車の牽引を行っていたものと推察される。
 勾配路線用のEF62形にとって、東海道・山陽本線の荷物列車のような長距離運用は無理があったともいわれている。1986年11月の国鉄最後のダイヤ改正では、荷物列車そのものが廃止され、EF62形の東海道・山陽本線での活躍も短期間で終わってしまった。

2009/04/04

横浜市営バス101系統

 地下鉄のない本牧地区の主な交通機関といえば、横浜市営バスである。
 主要な運転系統のいくつかは、市電のルートを代替するものである。
 この101系統は、保土ヶ谷車庫と根岸駅前を結ぶもので、旧市電5系統の代替バスである。
 横浜駅西口方面への行き帰りには、意外と便利である。また利用していると、和田山口から根岸方面に向けてかなり乗ってくる。
 桜並木と市バスの組み合わせも悪くはない。

横浜市電1205号

  かつては横浜市の中心部を縦横に走っていた横浜市電ですが、その存在の痕跡を示すものはほとんど残っておりません。
 本牧市民公園には、D51蒸気機関車のうしろに横浜市電1205号が保存されていました。1200形は市電保存館にも保存されていない形式でした。
 写真を撮影したのは1989年頃ですが、1205号の痛みは相当激しくなっていました。
 90年代の初めには撤去されてしまい、市電のあった場所には横浜機関区から移設されたターンテーブルが保存されています。
【撮影:佐野次郎 1989年頃】

東京都電荒川線7000形〈7023号〉

 荒川線の恒久的存続が決定し、ワンマン化を図ることになり、7000形は車体を載せ替えた。
 今にしてみれば、停留所にスロープを設けて、電車の段差をなくしたことは先進的であったと思う。
 昭和50年代初めに行われた車体更新だが、塗装変更や更新修繕を経た現在でもそれほど古さは感じない。
 しかし台車は旧型だし、走行音は釣り掛け式の旧型電車そのものである。
 それでも新型の8500形より、よほど頻繁に走っているように見受けられる。扱いやすいのだろうか?当面は元気で活躍する姿を見られることだろう。 
【撮影:佐野次郎 2009.4.3荒川車庫前】

2009/04/03

都電おもいで広場


 都電荒川線の荒川車庫の隣には、「都電おもいで広場」が設けられ、PCCカーこと5500形5501号と学園号こと7500形7504号が保存されている。
 屋外とはいえ屋根がつき、管理体制も整っているようである。飲料の自動販売機が都電と同じ塗装というのもご愛嬌だ。
 しかし、かつて東京中を走り回っていた都電の保存施設がこれだけいうのはいかがなものかとも思う。
 「都電博物館」なるものがあっても不思議でも何でもないと思う。両国にある江戸東京博物館の無駄な吹き抜けに作ってもらいたい。6000形・7000形・8000形など現存する廃車体をかき集めるのだ。
 いささか好き勝手なことを書いてしまったが、小規模ながら保存施設があること、そしてなによりも荒川線が営業運転を継続していることを素直に喜ぶべきだろう。

2009/04/01

東急東横線 桜木町駅

かつては当たり前だと思っていた光景でも、過去のものとなることはよくある。 
 東急東横線の始発駅は長い間桜木町駅だった。小生も渋谷方面に向かうときには、始発の桜木町駅からゆっくり座っていくのを常としていた。
 昭和50年頃の桜木町駅といえば、現在バスターミナルとなっているあたりが貨物駅であり。海側には三菱の造船所があった。国電のホームには、海からの風がもろに吹きつけ。やたらに寒かった。
 そのころの東横線には青カエルこと5000系もまだ走っていたような記憶がある。
 写真の撮影は2003年である。当時はまだ原型に近い8000系も走っていたのである。既に東横線の桜木町駅も8000系も過去のものとなった。現在ではみなとみらい線がかつての東横線より海側の地下を走り、元町・中華街駅まで乗り入れている。 

2009/03/30

数年前の池袋公園


 日々の生活の場にも、多かれ少なかれ変化はある。拙宅の近所に池袋公園という、夜景のきれいな公園がある。といっても見えるのは、海と石油コンビナートなのだが・・・
 この池袋公園は再整備されたが、再整備前には、木馬が設置されていた。だからどうだという代物でもなかったが、手作りの味みたいなものは十分に出ていたような気がする。「ヘタウマ」みたいな・・・感じであった。馬の親子を表現していたものだろう。