2020/03/28

アジフライ

今週も無事に普段通りの生活ができましたが、新聞・ニュースでのコロナウィルスの報道、特にイタリアの記事には不安が募りますね。日本でも報道される感染者数が増えてきました。
身近なところでは、マスクの欠品は相変わらずですが、トイレットペーパーが一部店頭でなくなったり、カップ麺やパスタなどがなくなったりしているのを見かけました。東日本大震災の直後に、近隣のスーパーで欠品が目立ったのを思い出しました。
私は毎週休日に実家の食料品の買い出しをしているのですが、食料品の買い占めのニュースを見ると非常に不安になります。この不安は先週には感じなかったものですが、今日は普通に買い物ができてほっとしました。ほっとしたところで、ランチにアジフライを揚げました。
新型コロナウィルス、自分の免疫力で対抗するしかないそうです。手洗い・うがい・咳エチケットに加え、食生活・適度な運動・睡眠など1日1日コツコツやっていくほかありませんね。

相模鉄道8000系(8702F)

連日テレビをつければ、新型コロナウィルスの話題ばかりです。危機感を煽るような取り上げ方には疑問を感じますが、少なくとも向こう数か月は手洗い・うがい・咳エチケットの徹底が必要だと思います。
そんなわけで月数回の撮り鉄も、しばらくはお休みになります。休日は家でゆっくりと読書やギターを楽しみたいと思います。当ブログも過去に撮りためた写真を公開していくことになります。
相模鉄道8000系の第2編成である8702Fのうち中間車2両が廃車となり、既に車両基地から搬出されたそうです。残りの8両の帰趨ははっきりしませんが、8両編成へ短縮されるか、編成丸ごと廃車されるかのいずれかでしょう。
写真の8702Fは1991年3月に日立製作所で完成したもので、8000系の2次車に相当します。新しい電車だと思っていた8000系も初期車は30年近く走っているわけで、廃車が出ても不思議ではないですね。
【撮影:佐野次郎 2017.5.14 西谷ー上星川間】

過去の記事から
相模鉄道8000系(8702F)オリジナルカラー

2020/03/21

尾久車両センター

かつて上野駅を起点に多方面の特急・急行列車が設定されていた時代、尾久駅に隣接する尾久客車区には、配置車両も含めて多くの寝台客車・座席車が留置されていました。品川駅同様、日中は青い客車をたくさん見ることができたわけです。
JRに移行してからも、絶対数こそ減少しましたが、青函トンネルを経由して札幌まで直通する「北斗星」用に整備された24系25形や、「あけぼの」、「北陸」は21世紀まで存続することができました。
新幹線の整備が進み、「あけぼの」「北陸」「北斗星」と次々と姿を消しました。JR東日本としては、航空機・高速バスが競争力を高める中で、新幹線に経営資源を集中するしかなかったのでしょう。客車の老朽化も深刻でした。
今では尾久の広大な留置線は、上野東京ラインの通勤電車がほとんどを占めるようになりました。そのおかげで品川を再開発できるわけですから経営には大きく貢献するでしょう。写真のわずかに残された寝台車、大切に保存されることを望みます。
【撮影:佐野次郎 2017.7.10 尾久駅】

2020/03/20

尾久客車区の12系客車

2020年現在、JR各社の旅客用車両は電車もしくは気動車が圧倒的な存在で、機関車+客車という組み合わせは、JR九州の「ななつ星」やJR西日本の「やまぐち号」など特殊な存在となりました。
国鉄時代には、客車は寝台列車やローカル列車のほか、波動輸送用としても大きな役割を担っていました。それは動力を搭載しない客車は電車・気動車に比べてランニングコストが安く、運用路線も選ばなかったためです。
1969(昭和44)年に登場した12系客車は、当初から冷房装置・自動ドアを搭載して客車の水準を大きく高めた存在です。165系などの急行形電車に準じた設備を持ち、特急形相当の14系客車の基礎となった系列ともいえるでしょう。
首都圏では、尾久や品川などで身近に見られた客車でもあります。国鉄時代からお座敷列車に改装される編成もあり、分割・民営化に際して多くのジョイフルトレインが登場しました。1990年代半ばから廃車が始まり、今では姿を見ることはできません。
【撮影:佐野次郎 1984.9.30 尾久駅】

2020/03/19

京福電気鉄道モボ121形(125号)

私の母の実家が京都にあったので、子供の頃は京都に行くことが何度かありました。母と一緒のこともあれば、私ひとりで新横浜から新幹線「こだま」に乗って、京都駅まで祖母に迎えに来てもらったりしていました。
小学生の頃でしたが、当時はまだ京都市電も健在で、行くたびに京都駅の乗り場が縮小されるのが気がかりでしたが、わら天神の停留所は市電の全廃まで残っていました。途中に通ります北野白梅町を起点とする嵐電の存在にも気がついておりました。
京都市電は残念ながら全廃されましたが、嵐電は今でも健在です。2015年に久々に乗りましたが、路面電車より気持ち車両のサイズが大きいですね。観光客で大賑わいでありました。
現在の嵐電の電車は、紫色の塗装が基本でしてこれはこれで良いのですが、私は往年のクリームとグリーンの塗分けが好みです。写真は亡くなった父が1973年頃竜安寺道で撮影したスナップです。

2020/03/15

京浜東北線と品川駅

私にとって一番身近な鉄道といえば京浜東北・根岸線であります。スカイブルーの103系は初めて認識した電車であります。その後、205系が少数入り、209系・E233系と車両は代わっていきました。
最寄駅の山手駅は、JRになってからお手洗いにペーパーが常備されるようになり、改札から駅員さんがいなくなって自動改札になり、キヨスクがなくなり、駅舎が建て替わって位置が移動したりと変化がありました。
電車の本数やダイヤは、横浜線の直通がいったん増えてから再び減ったほかはそれほど変化を実感できません。むしろ近年の遅延の常態化のほうが実感できます。社会の変化を反映しているのでしょう。
写真は品川駅で何気なく撮影した103系です。現在では、京浜東北線のホームも移動し、ホームドアが付きました。関内で上り列車は左側のドアを開けますが、以前は田端まで右側のドアが開くようになっていました。ホーム移動により品川で左側のドアが開くようになりましたので、位置取りによってはうまく品川で降りることができます。
【撮影:佐野次郎 1985年頃 品川駅】

2020/03/14

新特急「なすの」

本日3月14日はJRグループのダイヤ改正初日、山手線・京浜東北線の高輪ゲートウェイ駅開業や常磐線の全線復旧が話題となっていることでしょう。前日には「スーパービュー踊り子」とともに251系も運用から退きました。
私にとって3月14日のダイヤ改正といえば、国鉄時代の1985(昭和60)年3月14日のダイヤ改正の印象が強いです。大宮が始発駅だった東北・上越新幹線が上野まで延長され、上野発着の特急・急行の再編成が行われました。
上野ー大宮間の「新幹線リレー号」に使用されていた185系200番台を活用して、新特急「なすの」「谷川」「草津」「あかぎ」が設定されました。従来の感覚では急行に位置づけられる比較的距離の短い列車でした。
写真の新特急「なすの」は上野ー宇都宮:黒磯間の運転でしたが、のちに快速「ラビット」新設の影響で乗客数も減少したため、1往復に減便されました。1995年12月のダイヤ改正で東北新幹線に「なすの」が新設されたため、「おはようとちぎ」「ホームタウンとちぎ」に改称されました。
【撮影:佐野次郎 1985年頃 上野駅】

過去の記事から
新幹線リレー号
185系200番台

2020/03/11

特急「鳥海」

私が鉄道写真を撮り始めたのは1984年頃ですが、当時子供たちの撮影の聖地は、上野・東京・品川でのいわゆる駅撮りだったのではないでしょうか。私も数回ずつ撮りに行っています。
写真は上野駅で撮影した特急「鳥海」です。この列車は1982年11月の東北・上越新幹線の開業にともない、上野ー青森間の特急「いなほ」の改称により1往復を新設したものです。「いなほ」は現在に続く新潟で新幹線に接続する列車に再編されました。
この時点では、「つばさ」「やまばと」など上野発着の特急も少し残りましたが、新幹線が大宮発着だったからです。中でも「鳥海」は食堂車も備えた貫禄の12両編成でしたが、1985年3月の東北・上越新幹線の上野開業で早々と廃止されました。
写真のクハ481形は前照灯4灯の1500番台ですが、1975年に札幌ー旭川間に新設された特急「いしかり」に使用されたものです。485系の北海道投入は暫定的なもので、781系に代替されて本州に転じ、新潟地区を中心に長く活躍しました。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 上野駅】

2020/03/08

相模鉄道10000系(10706F)

相模鉄道は車両のバリエーションが豊かで、撮影していて楽しい路線です。現在では新型の12000系・20000系に注目が集まることでしょう。また引退が近いと思われる新7000系もまた撮影意欲を駆られる存在ですね。
そんな中で10000系は、人口動態や経済情勢の変化を反映した乗客数の伸び悩みを背景に、標準化・コストダウンを強く意識した車両となりました。相鉄の独自路線を離れて、JR東日本のE231系をベースとしています。
それでも現在の姿を記録しておこうと思います。おそらく2024年度までにはYNB化によって姿を変えているものと思われます。9000系ほどの念入りな改装ではなく、ラッピングでYNB化し、内装と走行機器を更新するのでしょうが。
写真の10706Fは2005年1月に東急車輛で完成し、かしわ台電車基地に新製配置されたものです。10000系は2002年から2006年にかけて70両〈10両編成3本、8両編成5本〉が製作され、新6000系や2100系を代替しました。
【撮影:佐野次郎 2019.4.29 西谷ー上星川間】

過去の記事から
相模鉄道10000系(10701F)
相模鉄道10000系〈10702F〉
相模鉄道10000系(10708F)

2020/03/07

寝台特急「はやぶさ」

今では「サンライズ出雲・瀬戸」が残るだけになってしまった寝台特急ですが、1980年代には、寝台急行を含めてまだまだ多くの列車が運転されていました。その中でももっとも華やかだったのが、東京を起点に九州まで走る列車たちでした。
寝台特急「はやぶさ」は、1958年10月に東京ー鹿児島間に新設されました。当初は一般形客車を使用しておりましたが、1960年7月から20系客車に変更され、東京ー西鹿児島間の運転になりました。
新幹線が博多まで開業した1975年3月のダイヤ改正で、20系から24系24形客車に変更され、さらに1976年10月にはB寝台を二段式にした24系25客車に変更されました。その際にA寝台は個室式のオロネ25形となり、食堂車は24系24形のオシ24形が残りました。
1985年3月のダイヤ改正では、東京ー下関間の牽引機関車がEF65形1000番台から、EF66形に変更されました。これは撮りに行かなくてはと思い、父のニコンを借りて新子安駅まで出かけていきましたが、日曜の午前中でものんびりと撮影することができました。
【撮影:佐野次郎 1985年 横浜ー川崎間】

2020/03/04

品川駅で見たブルートレイン

私が鉄道写真らしきものを撮り始めたのは中学生の頃でした。おそらく1984年頃だったと思います。オリンパスのPENというハーフサイズ(フィルム1コマで2枚撮影できる)のカメラを父から借りて出かけました。
その後、ニコンの一眼レフを父から借りましたが、ピント・露出も自分で合わせるという代物で、今考えるとよく撮影できたものだと思います。もちろん当時はカメラといえばマニュアルが当たり前だったのですが。
その頃の花形といえば、東京駅を起点とするブルートレインでした。SLブームは既に去り、路面電車も廃止が進み、上野口の在来線特急も東北・上越新幹線の開業によりかなり本数が減っていました。
品川駅近くに品川客車区があり、日中はブルートレインの客車が停泊していました。特急「さくら」「はやぶさ」「富士」「みずほ」「あさかぜ」「出雲」「瀬戸」、急行「銀河」が次々と東京駅を発車していたのですから、今となっては華やかなラインナップでした。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 品川駅】

2020/03/01

荒川線7500形(7510号)

東京都電の唯一の残存路線である荒川線は、ちょくちょくと撮影に出かけている路線であります。最初は父に連れられて、7000形や7500形が原型のツーマン車として使用されている時代でした。
次は荒川線の恒久的な存続が決定し、7000形31両の車体更新と7500形16両のワンマン化改造が行われてからだと記憶しています。そのあとは初めて私一人で撮影に出かけたと思います。カメラは父に借りたフィルムカメラでしたが。
1984年から87年にかけて7500形のうち13両について、車体更新が行われました。7000形とは異なり、車体更新と同時に冷房つきとなりました。アイボリー地に薄いグリーンとより好感の持てるデザインとなっています。
ヘッドライトの並び方だけはオリジナルの7500形の面影を残しておりました。車体更新後の7500形は、老朽化のため2008年から2011年にかけて8800形に代替されて引退しました。写真の7510号は花電車用の花100形に2010年に改造されましたが、2018年に廃車となりました。
【撮影:佐野次郎 1992.3.28 荒川車庫前】