東急池上線・多摩川線では、1000系27両(3両編成)が活躍しています。ベテラン7600系・7700系と新鋭7000系に挟まれた中堅どころといった位置づけになるのでしょうか?
1000系の車体は、東横線用の9000形を一回り小さくしたようなデザインとなっています。その中でも窓配置や行先表示回りなどが1000系独自のデザインとなっています。
最初は先代7000系に代わる東横線から日比谷線直通運転用に8連が投入されましたが、目蒲線・池上線に残っていた緑色の旧形電車を置き換えるために4連と3連も登場しました。
写真の1019Fは1993年3月に両端の先頭車が製造され、1991年9月に製造された中間車を組み込んで3両編成としたものです。池上線用でしたが、現在では多摩川線でも使用されています。
2012/01/29
東京急行電鉄7700系(7905F)
東急池上線・多摩川線には、新形7000系電車が少しずつ投入されていますが、先代7000系のスタイルを維持している7700系も30両(3両編成10本)が活躍しています。
7700系への改造に際して、冷房化と車内更新を行っていますが、オリジナルのスタイルをよく残しています。50年近く使用している車体とは思えないほど、いい状態を維持しています。
足回りはほぼ新品となって、VVVFインバータ制御となりました。7000系の時代は全電動車でしたが、7700系ではモーターなし車を取り入れていますね。
写真の7905Fは、1987年12月に東急車輌で改造されたものです。目蒲線では4連で使用されましたが、現在では3連となり、ワンマン運転対応に改造されております。
7700系への改造に際して、冷房化と車内更新を行っていますが、オリジナルのスタイルをよく残しています。50年近く使用している車体とは思えないほど、いい状態を維持しています。
足回りはほぼ新品となって、VVVFインバータ制御となりました。7000系の時代は全電動車でしたが、7700系ではモーターなし車を取り入れていますね。
写真の7905Fは、1987年12月に東急車輌で改造されたものです。目蒲線では4連で使用されましたが、現在では3連となり、ワンマン運転対応に改造されております。
2012/01/28
東京急行電鉄 1992年
1992年当時池上線には、7200系が走っておりました。7200系は先代7000系の改良形ともいえる存在でしたが、傾斜した前面や数が少ないこともあってなんとなく東急の中でも特別な電車だという印象がありましたね。現在も2編成が活躍している7600系を含めて、42両が池上線で使用されていました。東急からは既に引退した7200系ですが、上田電鉄や豊橋鉄道では現役として活躍していますね。同じく7200系が移籍した十和田観光電鉄の廃止は残念ですね。
現在では多摩川ー蒲田間で多摩川線となっていますが、1992年では目黒ー蒲田間の目蒲線でした。また現在では3両編成ですが、目蒲線当時は4両編成での運転でした。
下丸子の駅も現在では改装されて、屋根が設けられている他、ホームは3両編成用となり、ワンマン運転用の柵がついていますね。また背景の立体駐車場も現存しません。
当時の目蒲線の主力は4両編成の1000系と7700系でした。現在多摩川線の車両は、池上線と共通運用で車両基地も雪ケ谷検車区に統合されていますが、目蒲線の頃は奥沢に車庫がありました。
現在では目黒線用の3000系や5080系が留置されていますね。こじんまりとした車庫でしたが、現在でも6両編成がきれいに収まっております。
東横線に目を転じると、当時は8590系が急行専用、8000系と9000形が急行・各停兼用というイメージがありました。正確なところはわからないのですが、現在では特急・急行・各停で車両の区別がない東横線ですが、8090系とみなとみらい線直通をにらんで編成を組み替えた8590系には急行用というイメージがありました。
当時東横線での最新型車両が、1986年から投入された9000系でした。外観は角ばった車両ですが、車内の腰掛は奥行きが深く乗り心地のよい車両です。車端部の向い合わせの座席は、なかなかいいものだと私は思います。
当時は先頭車のスカートも装備されていませんね。9000系も次々と東横線を去り、大井町線への転属が進んでいます。
地下鉄日比谷線からの直通電車も、当時は1時間に4本の運転が基本でした。日吉までの運転でしたね。初代の3000系に代わって、冷房付きの03系が増備されていました。
当分は日比谷線の主力として走り続けるであろう03系ですが、当時は営団地下鉄のシンボルマークを付けていますね。正式には帝都高速度交通営団といったと記憶しています。そういえば京王電鉄も、旧社名を京王帝都電鉄というのですよね。
現在は東急東横線と目黒線がきれいな方向別複々線を形成している田園調布ー多摩川間も、当時は工事のまっさい中です。
高頻度の電車運転を継続しながら、ルートを作りかえるのは凄いことだと思います。東急グループの総合力は現在、渋谷を結節点とした副都心線と東横線の相互乗入れに注がれていますね。
現在では多摩川ー蒲田間で多摩川線となっていますが、1992年では目黒ー蒲田間の目蒲線でした。また現在では3両編成ですが、目蒲線当時は4両編成での運転でした。
下丸子の駅も現在では改装されて、屋根が設けられている他、ホームは3両編成用となり、ワンマン運転用の柵がついていますね。また背景の立体駐車場も現存しません。
当時の目蒲線の主力は4両編成の1000系と7700系でした。現在多摩川線の車両は、池上線と共通運用で車両基地も雪ケ谷検車区に統合されていますが、目蒲線の頃は奥沢に車庫がありました。
現在では目黒線用の3000系や5080系が留置されていますね。こじんまりとした車庫でしたが、現在でも6両編成がきれいに収まっております。
東横線に目を転じると、当時は8590系が急行専用、8000系と9000形が急行・各停兼用というイメージがありました。正確なところはわからないのですが、現在では特急・急行・各停で車両の区別がない東横線ですが、8090系とみなとみらい線直通をにらんで編成を組み替えた8590系には急行用というイメージがありました。
当時東横線での最新型車両が、1986年から投入された9000系でした。外観は角ばった車両ですが、車内の腰掛は奥行きが深く乗り心地のよい車両です。車端部の向い合わせの座席は、なかなかいいものだと私は思います。
当時は先頭車のスカートも装備されていませんね。9000系も次々と東横線を去り、大井町線への転属が進んでいます。
地下鉄日比谷線からの直通電車も、当時は1時間に4本の運転が基本でした。日吉までの運転でしたね。初代の3000系に代わって、冷房付きの03系が増備されていました。
当分は日比谷線の主力として走り続けるであろう03系ですが、当時は営団地下鉄のシンボルマークを付けていますね。正式には帝都高速度交通営団といったと記憶しています。そういえば京王電鉄も、旧社名を京王帝都電鉄というのですよね。
現在は東急東横線と目黒線がきれいな方向別複々線を形成している田園調布ー多摩川間も、当時は工事のまっさい中です。
高頻度の電車運転を継続しながら、ルートを作りかえるのは凄いことだと思います。東急グループの総合力は現在、渋谷を結節点とした副都心線と東横線の相互乗入れに注がれていますね。
【撮影:佐野次郎 1992.2.9 ①蒲田ー蓮沼間、②下丸子駅、③奥沢(敷地外から撮影)
④⑤⑥自由が丘ー田園調布間、⑦自由が丘ー田園調布・奥沢間】
④⑤⑥自由が丘ー田園調布間、⑦自由が丘ー田園調布・奥沢間】
2012/01/22
上野駅の20系客車
次回のダイヤ改正で「日本海」が定期列車としては廃止になるように、21世紀になってから次々と姿を消していき、一般的な移動手段としては使命を終えつつある感の強いブルートレインですが、元祖は1958年に東京ー博多間の「あさかぜ」に投入された20系客車です。
何でも当時は現在の大衆化の進んだ特急とは異なり、文字通り「特別な急行」だったそうです。全車空調完備で、個室寝台から座席車まで多様なニーズに対応できる設備を備え、食堂車も備えた20系は「走るホテル」と呼ばれました。
私が鉄道写真を撮るようになった1980年代には、既に寝台特急はB寝台が2段式になった24系25形がブルートレインの主力となり、14系14形や24系24形のB寝台を3段式から2段式に改造していました。20系は「あけぼの」を最後に特急から退き、急行用に転用されておりました。
20系の急行転用としては、東京ー大阪間の「銀河」での運用が有名ですが、その他上野口では「津軽」「十和田」や、12系座席車との混結で「おが」に使用されていたかと思います。陳腐化してはおりましたが、丸みを帯びた優美なスタイルが魅力的でした。
何でも当時は現在の大衆化の進んだ特急とは異なり、文字通り「特別な急行」だったそうです。全車空調完備で、個室寝台から座席車まで多様なニーズに対応できる設備を備え、食堂車も備えた20系は「走るホテル」と呼ばれました。
私が鉄道写真を撮るようになった1980年代には、既に寝台特急はB寝台が2段式になった24系25形がブルートレインの主力となり、14系14形や24系24形のB寝台を3段式から2段式に改造していました。20系は「あけぼの」を最後に特急から退き、急行用に転用されておりました。
20系の急行転用としては、東京ー大阪間の「銀河」での運用が有名ですが、その他上野口では「津軽」「十和田」や、12系座席車との混結で「おが」に使用されていたかと思います。陳腐化してはおりましたが、丸みを帯びた優美なスタイルが魅力的でした。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 上野駅】
東海道線の荷物電車
国鉄の分割・民営化に前後して投入された211系電車のE233系電車への置換えが、急ピッチで進んでいる現在の東海道本線東京口からは想像できませんが、80年代までは写真のような「荷物電車」が走っていました。
荷物輸送というのは、「国鉄がやっていた鉄道を使う宅配便」のようなもので、明治時代に始まり、国鉄の分割・民営化直前の1986年11月のダイヤ改正で全廃となりました。かつては駅に、乗車券売り場のほかに、荷物窓口というカウンターがあって荷物を受け付けていたのです。
東海道線の荷物電車は写真のように単独で走ることもあれば、旅客用の15両編成の電車に連結されて16両編成で走ることもありました。現在でも大船駅の東海道線上りホームの後方に一段低くなっている部分があるのはその名残です。また川崎駅にも痕跡が認められます。
写真の電車はクモユニ74形というもので、1962年に111・113系電車との併結用に導入されました。旧形電車の走行機器に、新製車体を組み合わせたものです。かつて新幹線の「ひかり」「こだま」で東京駅を発車すると、駅に止まっているのを見た方もおられると思います。
荷物輸送というのは、「国鉄がやっていた鉄道を使う宅配便」のようなもので、明治時代に始まり、国鉄の分割・民営化直前の1986年11月のダイヤ改正で全廃となりました。かつては駅に、乗車券売り場のほかに、荷物窓口というカウンターがあって荷物を受け付けていたのです。
東海道線の荷物電車は写真のように単独で走ることもあれば、旅客用の15両編成の電車に連結されて16両編成で走ることもありました。現在でも大船駅の東海道線上りホームの後方に一段低くなっている部分があるのはその名残です。また川崎駅にも痕跡が認められます。
写真の電車はクモユニ74形というもので、1962年に111・113系電車との併結用に導入されました。旧形電車の走行機器に、新製車体を組み合わせたものです。かつて新幹線の「ひかり」「こだま」で東京駅を発車すると、駅に止まっているのを見た方もおられると思います。
【撮影:佐野次郎 1985年頃 横浜ー川崎間】
2012/01/18
小田急1000形(1093F)
小田急電鉄で、地上用8000形・千代田線乗り入れ用9000形2形式を1形式で継承したような格好の1000形電車ですが、1991年に千代田線乗り入れ用の10両固定編成が登場しました。
千代田線内は10両編成での運転ですから、6両+4両での10両編成ですと中間の運転台が客室として利用できない空間になってしまいます。日中はともかく、朝のピーク時の混雑を考えると、やはり10両固定編成が理想的です。
機器の構成は6両+4両の10両編成の中間運転台を客室化した構成となっています。また他形式と連結することはありませんので、先頭車の電気連結器を省略しています。
写真の1092Fは1992年11月に川崎重工で完成したもので、10連の2次車に相当します。小田急としては3代目の千代田線直通車両である4000形の増勢に伴い、多摩急行の運用からは退いております。
千代田線内は10両編成での運転ですから、6両+4両での10両編成ですと中間の運転台が客室として利用できない空間になってしまいます。日中はともかく、朝のピーク時の混雑を考えると、やはり10両固定編成が理想的です。
機器の構成は6両+4両の10両編成の中間運転台を客室化した構成となっています。また他形式と連結することはありませんので、先頭車の電気連結器を省略しています。
写真の1092Fは1992年11月に川崎重工で完成したもので、10連の2次車に相当します。小田急としては3代目の千代田線直通車両である4000形の増勢に伴い、多摩急行の運用からは退いております。
【撮影:佐野次郎 2011.9.4 生田ー読売ランド前間】
過去の記事から
多摩線を走る多摩急行1000形(1094F)
2012/01/14
鶴見川を渡る東横線Ⅲ
今となっては、JR東日本をはじめとして首都圏の通勤電車は、ステンレス製の銀色の電車がほとんどになりましたが、昭和50年代頃には普通鋼製の電車が一般的で、ステンレスカーといえば東急というイメージがありました。
東急では、1962年にデビューした先代7000系から、アメリカのバット社から技術を導入したステンレスカーを傘下の東急車輌で製造していました。その後7200系や東横線の主力だった8000系、今でも田園都市線の主力となっている8500系と発展していきました。
国鉄が1985年に山手線に205系を投入する際に、東急車輛は他メーカーにステンレス車体の製造技術を公開したそうですね。その後次々とステンレス車体の電車が製造され、JR東日本では新津車両製作所という自前の工場を持つに至りました。
先日JR東日本が東急車輌の経営権を取得するという報道がありました。時代は流れますね。ちなみに写真の東急9000系は1986年にデビューしたもので、205系とは同世代ですが、制御方式はVVVFインバータ制御と一歩進んでいましたね。
東急では、1962年にデビューした先代7000系から、アメリカのバット社から技術を導入したステンレスカーを傘下の東急車輌で製造していました。その後7200系や東横線の主力だった8000系、今でも田園都市線の主力となっている8500系と発展していきました。
国鉄が1985年に山手線に205系を投入する際に、東急車輛は他メーカーにステンレス車体の製造技術を公開したそうですね。その後次々とステンレス車体の電車が製造され、JR東日本では新津車両製作所という自前の工場を持つに至りました。
先日JR東日本が東急車輌の経営権を取得するという報道がありました。時代は流れますね。ちなみに写真の東急9000系は1986年にデビューしたもので、205系とは同世代ですが、制御方式はVVVFインバータ制御と一歩進んでいましたね。
【撮影:佐野次郎 2012.1.9 大倉山ー綱島間】
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