2009/09/27

小田急5000形(5065F)

 小田急5000形は、小田急では最古参の電車で1969年から77年にかけて5次にわたり60両(4両編成15本)が新製された。
 急行系統の新宿寄りに連結され、1000形・3000形・5200形・8000形と組み合わせて使用されている。
 いつの間にか側窓が二段式の通勤電車を見かけることが少なくなってきた。というよりも銀色の電車が増え、塗装をしている電車そのものが珍しくなってしまった。
 写真の5065Fは、1977年11月に日本車輌で新製された5000形のラストナンバーである。
【撮影:佐野次郎 2009.9.23百合ケ丘駅】

小田急5000形(5061F)

 小田急5000形は4両編成で新製された。車体は2600形とほぼ同一であるが、地下鉄直通電車用に設定された運輸省の基準に準拠して製造され、防火対策が強化されている。
 台車は空気バネ式台車であり、制御器も多段式で加減速時のショックが軽減されており、新製当時の通勤型電車としては高水準の電車だということができる。
 初期型については40年走っているとはいえ、古い電車だという気がそれほどしないのは、保守が行き届いていることと元来優秀な電車だからだと思う。
 写真の5061Fは1971年4月に東急車輌で新製された編成である。
【撮影:佐野次郎 2009.9.23百合ケ丘駅】

小田急5000形(5059F)

 5000形がどういう車両かというと1969年に急行・準急列車の大型車8両編成での運転を開始するのに際して導入された車両である。
 大型車とわざわざ注記されたのは当時の小田急には2400系など18m級車体を持つ中型車が多数在籍していたためである。
 また同じ「小田急顔」の電車でも2600形は各駅停車用に重点を置いて設計されていたが、5000形は中高速域での加速性能を重視した電車となった。
 写真の5059Fは1971年4月に川崎重工で新製された編成で、当初から冷房装置を搭載していた。
【撮影:佐野次郎 2009.9.23百合ケ丘駅】

小田急5000形(5054F)

 小田急では3000形の大量増備により、2600形や先代4000形といった「小田急顔」の車両が一挙に置き換えられ、「小田急顔」の電車としては5000形と5200形だけが活躍している。
 本年度も4000形の増備により、同数の5000系列の車両が現役を退くことになるだろう。
 写真の5054Fは1969年11月に日本車輌で新製された電車である。新製当初は冷房装置を搭載していなかった。
 現在では通勤電車に冷房がついているのが当たり前だが、昭和50年代には冷房のない電車も走っていて、「冷房化率」などという数値が公表されていた。
【撮影:佐野次郎 2009.9.23百合ケ丘駅】

2009/09/23

東京急行電鉄7700系(7915F)

 池上・多摩川線を走る東急7700系36両(3両編成12本)の中でひときわ異彩を放つのが、この7915Fである。
 1996年に先頭車化改造を行ったもので、新設された運転台には1000系のスタイルを取り入れている。
 列車情報モニタディスプレイを初めて設置したほか、連結面に転落防止装置を初めて採用した。その他デハ7715にはSIV一体型VVVFインバーター制御装置を導入するなど、さまざまな新機軸を取り入れた。
 先頭車にシングルアーム式パンタを装備していることで、独特の面構えとなっている。

池上線7000系(7102F)

 東急7000系は、池上・多摩川線用として雪ケ谷検車区に12両(3両編成4本)が在籍している。
 私は丸みを帯びた前面形状や緑色のカラーリングを施していることから、なんとなく「青カエル」こと先代5000系を連想させる形式である。
 従来の発想であれば、5000系を18m級にスケールダウンした車両を投入したように思うが、大井町線の6000系と同じく明らかに「それとわかる」車両にしたのはどういう意図があるのだろうか?誰がどのように企画したのか興味が湧くところである。
 大井町線で「急行」を待てば確実に撮影できる6000系とは異なり、7000系を撮るためには「待つしかない」ということのようである。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21石川台ー雪ケ谷大塚間】

2009/09/22

内房線211系(マリ506編成)

 房総地区では、宇都宮・高崎線から転用された211系電車70両も活躍している。この211系は宇都宮・高崎線でもグリーン車を連結するに際して、E231系電車に代替されたものである。
 房総地区への転用に際して、ラインカラーを湘南色から「菜の花」をイメージしたものに改めている。
 5両編成を基本単位としており、東海道線用とは異なり制御電動車(クモハ)が含まれていることが特徴である。
 211系も209系の投入により、再び他路線へ転出することになる。中央東線の115系代替に充当されるという噂があるが実際はどうなるのだろうか?
【撮影:佐野次郎 2009.9.21千葉駅】

外房線113系(マリS67編成)

 今となっては通勤電車然としたE217系が走る横須賀線・総武快速線であるが、長らく113系1000番台を使用していた。
 クリーム地に青帯を組み合わせた「スカ色」という塗装で親しまれていた。この塗装は旧型国電の時代から採用されているものである。
 現在では房総地区の普通列車で活躍を続けているこれらの113系も京浜東北・根岸線から捻出された209系により置き換えを図ることになった。
 209系の第一陣38両は10月から運転開始の予定であり、すでに幕張車両センターに配置されている。2011年度末までに209系は合計324両の大所帯となり113系も姿を消すことになる。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21千葉駅】

209系500番代(ケヨ31編成)

 目下のところ京葉線でもっとも新しい電車がこの209系500番代である。京浜東北・根岸線から4本が転属してきた。  JR東日本の通勤電車は広幅車体が標準となってきた。京葉線のラッシュ時の混雑もかなりのものであるから、209系500番台の投入は歓迎されていることだろう。  ところで京葉線は湾岸沿いを走るので強風には弱い路線である。となりを走る東京メトロ東西線は少し離れて走っているから、京葉線の運休の影響は甚大である。  先月京葉線が変電所のトラブルで運休したが、会社帰りに東西線の駅までたどりつくのにえらい苦労をした。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

205系(ケヨ12編成)

 1990年3月の東京ー新木場間の開業にあわせて205系10両編成12本が新製投入された。前面形状が新しくなったほか、110km/h運転に対応できるようになった。  京葉線・武蔵野線に新製投入されたグループが205系としては最終増備であり、その後JR東日本の通勤電車としては新しい設計思想を取り入れた209系が京浜東北線・南武線向けに新製されることになった。  209系0番台がE233系1000番代に急速に置き換えられている現在においては驚くに値しないが、205系の後期型も京葉線へのE233系の投入により廃車予定である。  新しい車両もいいが、一度作った車両は大事に使用してもらいたいような気もする。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

205系(ケヨ26編成)

 205系の第一陣40両が山手線に新製投入されたのは、1985(昭和60)年のことである。当時の国鉄では、設備投資の抑制が強く求められており、205系には201系の廉価版という性格もあったものと思う。  主回路には近郊型電車用として開発が進められていた添加界磁制御方式を採用した。私は専門的なことはよくわからないが、抵抗制御に回路を付加することにより回生ブレーキを使用できるようにしたものだと理解している。  また205系から採用されたボルスタレス台車は、近郊型・特急型電車にも採用され、標準的な仕様となった。  JR東日本の電車の元祖ともいえる205系の初期型であるが、最近はひとりでに窓が開くとか「都市伝説」がささやかれるようにもなっている。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

201系(ケヨK4+K54編成)

 京葉線の201系は、総武・中央緩行線にE231系を新製投入したことにより三鷹電車区から転属してきたものである。  2000年度から京葉電車区(当時)への転属が始まり、中央快速線からの転用車両も加えて最盛期には80両が活躍した。この中には試作車の900番台も含まれていた。  10両貫通編成は京浜東北・根岸線からの209系500番台の転入により、あっという間に姿を消してしまった。  残るは分割編成の4本だけだが、パンタグラフが菱形のものとシングルアーム式に換装されたものとがある。写真の編成はオーソドックスな菱形パンタを装備している。それにしても車番を切り抜き文字で表現した通勤電車などJRでは今後現れないことだろう。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

2009/09/21

武蔵野線205系(ケヨM63編成)

 武蔵野線にも1991年に、京葉線用と同一の前面形状を持つ205系が40両(8両編成5本)が新製投入された。
 武蔵野線としては初めての新製車両の投入であった。
 6M2Tと電動車比率の高い強力編成である。
 このグループは京葉線へのE233系新製投入により、捻出される209系500番台により、代替されるという噂もある。実際にはどうなるのだろうか?
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

武蔵野線205系(ケヨM13編成)

 武蔵野線はかなり遅くまで103系を使用していた路線であった。しかし山手線から転用する車両によって205系化されることになった。
 単純な転用というわけではなく、M車は最新のVVVFインバーター制御に換装され、車番も5000番台に変更された。
 MT比は4M4Tとなった。205系の車体は軽量ステンレス製で長期間の使用にも耐えうるわけであるから、こういう転用の仕方が「的を得た」ものといえよう。
 5000番台の電動車で構成された編成については、当面現状のまま推移することになろう。
【撮影:佐野次郎 2009.9.21新習志野駅】

2009/09/20

江ノ電1500形〈1501+1551〉

 一昔前の鉄道ファンといえば「鉄道マニア」などと呼ばれ、ともすれば揶揄する向きもあったと思う。とはいうものの鉄道を扱う月刊誌は4誌体制が何十年も続いているわけだから、相当数の愛好家が昔からいるわけだ。
 近年は「鉄子」などと呼ばれる女性のファンなども出現し、時代は変わったものだと思う。しかし、どういう楽しみ方をしているのかよくわからない。
 時代が変わると言えば、ついに政権交代が実現し、民主党を中心とする内閣が発足した。国土交通省の前原大臣は正真正銘の「鉄」だ。
 昔から趣味を仕事にしてはいけないとはいうが、何らかの足跡を残してもらいたいものだ。
【撮影:佐野次郎 2009.9.20極楽寺ー稲村ケ崎間】 

江ノ電2000形〈2001+2051〉

 江ノ電2000形のうち1編成が「チョコ電」として走っている。明治チョコレートの広告電車である。
 近代的な2000形に意外とこの広告塗装がマッチしている。
 私がこの塗装から連想するのは、昔横浜線を走っていた 旧型国電の73系である。
 山手線にもこのスポンサーが広告電車を走らせているが、こちらは旧型国電を模した色調であることを謳っている。
【撮影:佐野次郎 2009.9.20極楽寺ー稲村ケ崎間】

2009/09/19

副都心線渋谷駅

 渋谷ー代官山間の改良工事が完成したあとで、東急東横線の渋谷駅がどうなるかいうと、現在の東京メトロ副都心線渋谷駅が機能を引き継ぐことになる。
 また東横線の特急・急行は現行の8両編成から10両編成になる。既に横浜駅などではホームの延伸工事が行われている。
 副都心線と直通するということは、東武線・西武線とも相互乗り入れを行うということである。現状でも複雑な運転系統はいったいどうなるのだろうか?
 新しい東京メトロ10000系や東武50070系が東横線を走ることになるだろう。車両の運用についても複雑とならざるを得ないであろう。
【撮影:佐野次郎 2009.9.12】

2009/09/18

東横線渋谷駅

 東急電鉄は、最も設備投資を積極的に行っている鉄道会社である。常にどこかで比較的規模の大きい設備投資を行っている。
 東急電鉄を代表する路線である東横線はここ20年の間に大きく姿を変えている。運転面では速達性の高い「特急」の運転を開始している。
 インフラについては田園調布ー日吉間は目黒線の運転開始・延伸により堂々たる複々線区間となった。また横浜方ではみなとみらい線の開通により、横浜市の中心部まで直通することになった。
 現在は渋谷ー代官山間の工事を行っており、2012年には東京メトロ副都心線と直通する予定である。完成後は頭端式ホームの堂々たるターミナルである現在の東急渋谷駅は姿を消すことになる。
【撮影:佐野次郎 2009.9.12】

2009/09/13

大井町線9000系(9009F)

 大井町線では3本目の9000系となるのが9009Fである。東横線から転用され、9月から運用に就いている。
 大井町線への転用に際して、5連への短縮・正面帯色の変更のほか、パンタグラフのシングルアーム式への換装と方向幕のフルカラーLED化をを行っているようである。
 9009Fの元住吉検車区への新製配置は1988年9月である。21年間東横線で走り続けたあと大井町線に転じたというわけである。
 9009Fが走り始めた頃の東横線といえば、今とはだいぶ様子が異なる。例えば今では横須賀線の新駅工事が行われている武蔵小杉駅は、対向式ホーム2面2線の普通の駅だった。
【撮影:佐野次郎 2009.9.13高津駅】

東上線8000系(8111F)

 東武鉄道の主力車両である8000系は、ほとんどの車両が更新修繕とあわせて前面の改修工事を行い、オリジナルの姿で残る車両は東上線の2編成だけとなっている。
 写真の8111Fは現役の8000系のうち、最近運用に復帰した8112Fともに前面改修工事を行っていない編成である。
 20年くらい前の東武鉄道ではこの顔の電車が走りまわっていた。8000系だけでなく、釣り掛け駆動の3000系・5000系といった電車がたくさん走っていた。
 塗装もセイジクリーム1色というシンプルなものであった。8111Fも近いうちに現役を退くことになるのだろう。
【撮影:佐野次郎 2009.9.12川越駅】

2009/09/12

E233系1000番台(ウラ117編成)

 JR東日本の新車投入のペースにはすさまじいものがある。湘南色の113系が長く活躍していた東海道線もあっという間にE231系が中心となり、201系の牙城であった中央快速線もE233系が席捲した。
 私がほぼ毎日利用する京浜東北・根岸線でもほとんどがE233系になった。今後は京葉線にもE233系が新製投入されるそうだ。
 車内が広く明るい電車に置き換わっていくのは利用者としてはうれしいことである。何といっても遅延が減った(ような気がする)のはほんとうにありがたい。
 平成になってから、早くも二度目の新車ではあるが、冷静に考えると根岸線のダイヤにはあまり変化が見られない。列車の本数が増えたわけでもなく、スピードアップしたというわけでもない。
【撮影:佐野次郎 2009.9.12石川町駅】

209系(ウラ57編成)

 早いもので2009年も既に9月である。根岸線でも209系を見ることが少なくなってきた。最後まで残っていた500番台の最後の1本(ウラ80編成)も10日で京浜東北・根岸線での運用を離脱したらしい。
 最近京浜東北・根岸線では車両の不具合・点検による遅延が少なくなったような気がしている。209系の10両編成のうちモーター付きの車両が4両で、出力の大きくないモーターを最大限に活用するという運用には無理があったように思う。
 経済性を重視した鉄道車両には、東京都電8000形や横浜市電1600形など短命に終わった車両もあるし、また103系のようにまだまだ現役を続ける車両もある。
 平成生まれの209系が廃車予定と聞いた時は驚きもしたが、実際には相当両数が短編成化されて、房総地区などに転用されることになっている。
【撮影:佐野次郎 2009.9.12石川町駅】

碓氷峠鉄道文化むらナハフ111

 国鉄の客車の中で1950年代に製作された10番台の形式の客車は「軽量客車」と呼ばれている。1950年代の前半においては長距離輸送の主力は客車列車であり、客車の重量の増加は牽引機関車の負荷を増し、牽引両数の減少の要因となりまた速度向上の妨げにもなっていた。
 国鉄では1953年以降に車両の軽量化の研究を進め、1955年10月に溶接技術の進歩、新しい材料の使用、設計技術の進歩、台車の進歩を背景にして最初の形式ナハ10形8両が登場した。
 ナハフ11形は1957年から58年にかけて30両が製造された、車掌室付きの車両である。写真の1号車は1957年5月に品川客車区に新製配置され、1986年3月に福知山運転所で廃車された。
 私はまだまだブルートレインが多数運転されていた1980年代に、10系客車が品川客車区に留置されていたのを記憶している。おそらく事業用車の代用だろう。
【撮影:佐野次郎 2009.7.23】

碓氷峠鉄道文化むらオハネ1229

 10系軽量客車の寝台車としては、ナハネ10形が1955年から56年にかけて110両が製造されたあと、1957年から58年に給仕室(寝台の寝具格納スペースも兼用)の拡大を行ったナハネ11形が74両製造された。
 品川客車区や九州地区に新製配置され、東海道・山陽本線や九州連絡の夜行列車に連結された。従来のナハネ10形は各地に転属し、寝台車が各地に普及していくことになった。
 1966年から68年にかけてサービス向上を目的として冷房改造が行われたが、重量が増加したため形式がオハネ12形に変更された。
 写真の29号車は1958年9月に品川客車区に新製配置され、1967年9月に冷房改造を実施してオハネ12形となり、1986年1月に長崎で廃車されている。
【撮影:佐野次郎 2009.7.23】
 

碓氷峠鉄道文化むらオシ172055

 オシ17形食堂車は、1956年から60年にかけて30両が製造された。10系軽量客車の寝台車に準じた車体断面であるが、台枠は3軸ボギー客車を再利用したものである。
 広くなった車体を生かして食堂の定員を40名に増加させている。またデイーゼル機関駆動式の冷房装置など新しい機構を採用し、国鉄近代食堂車の基本となった。
 今となっては見る影もないが、昭和30年代には主要幹線には長大編成の夜行急行が多数運転されていた。寝台車だけではなく座席車も連結し、主要な列車には食堂車が連結されていた。
 オシ17形は1972年まで現役として活躍した。写真の2055号車は事業用車に転用されていたものを食堂車に復元して展示しているものである。
【撮影:佐野次郎 2009.7.23】

2009/09/06

京浜急行600形(607編成)

 京浜急行600形は、あくまで輸送の「手段」としてとらえられていた鉄道車両に少しでも多くの着席機会を提供し、快適な空間を生み出すことを意図して製造された電車である。
 地下鉄乗り入れに対応した車両であるから、都営浅草線や京成線にも乗り入れる。これらの路線でクロスシートを利用できることには大きなインパクトがあったものと思う。また空港線系統や、4両編成が普通列車の運用に入っていたりもする。
 一部の座席をスライド可能にするなど、通勤時間帯での円滑な運用にも留意されていたが、8連は602編成を除いて結局ロングシート化改造が行われてしまった。
 写真の607編成は、1995年に川崎重工で製作されたものである。
【撮影:佐野次郎 2009.9.6仲木戸駅】

碓氷峠鉄道文化むらDD531

 DD53形ディーゼル機関車は、1965年から67年にかけてDD51形を基本として3両が製造された除雪用機関車である。
 1963年に上信越・北陸地方を襲った「サンパチ豪雪」を背景として、既存のDD14形より強力な除雪用機関車が必要とされたのが本形式登場の理由である。
 3両とも、湿雪が多く条件が過酷な新潟地区に投入された。高速の優等列車を頻繁に運行していた新幹線開業前の上越線においては、欠かせない存在であった。
 1号機は翌年冬には北海道に転属し苗穂に配置された。1966年には旭川機関区に転属し、宗谷本線で使用された。1975年に新庄機関区に転属し本州に戻ったが、ほとんど使用されないまま民営化直前に廃車となった。
【撮影:佐野次郎 2009.7.23】

碓氷峠鉄道文化むらDD511

 DD51形ディーゼル機関車は、国鉄の動力近代化による輸送力を目的として1962年から1977年まで649両が製造されたものである。
 本線用の液体式デイーゼル機関車としては唯一の存在であり、重連形や蒸気発生装置を持たない車両など多くのバリエーションが派生した。
 最盛期には北海道から九州まで全国各地で活躍していた。JRの発足当時は259両が継承された。
 1号機は試作車であり、前哨灯やキャブの形状が量産車とは異なっている。碓氷峠鉄道文化むらには製造当初の塗装で保存されている。
【撮影:佐野次郎 2009.7.23】