2010/04/29

京浜急行電鉄2100形(2165編成)

 京浜急行の快速特急は、京急線内を運転する列車と、都営地下鉄浅草線に直通する列車が交互に運転されるようになっています。
 かつて快速特急は京急線内の運転のみで、2000形によって運行されていました。1998年から2000年にかけて現在の2100形に置き換えらえています。また現在では、泉岳寺まで多くの列車が乗り入れるようになり、西馬込発着の浅草線と同じホームで乗り換えできるようになっています。
 2100形による快速特急は、首都圏の電車では珍しく疾走感を実感できる列車です。設計上の最高速度が120km/hの電車は、JRのE233系などの通勤型や東急の7000系などたくさんありますが、ガチンコで120km/hだしているのはこの2100形くらいでしょう。乗車していると、「飛ばしているなあ」とつくづく感じます。しかも特急料金など不要です。
 写真の2165編成は、2100形の4次車に相当し、2000年11月に東急車輛で完成したものです。2008年12月に京急ファインテックでVVVF装置とモーターを更新したため、「歌わなく」なってしまいました。

2010/04/27

鉄道博物館21-2〈東海道新幹線0系〉

 私こと佐野次郎は12日に休暇が取れましたので、鉄道博物館に行って参りました。鉄道博物館では、昨年の10月から東海道新幹線の0系電車を展示しています。1964年10月の東海道新幹線開業時に投入された車両のうちの1両です。
 今やN700系や700系といった最新のテクノロジーを満載した新形車両が通勤電車並みの高頻度で走る東海道新幹線ですが、私のなかでは0系の印象が強いです。
 グレーの生地に、青でアクセントを入れたリクライニングしない座席、角ばって不格好なプラ容器に入った車内販売のお茶、袋みたいな紙コップに入れて飲む冷水器などが0系の思い出です。
 その頃は「ひかり」は新横浜には停車せず、東京まで出なければなりませんでした。そうまでして乗り込んだ「ひかり」に連結されていた食堂車を利用したのも貴重な経験となりました。何か通路が茶色い壁だったような、コロッケみたいなものを食べたようなあやふやな記憶ですが。
 在来線に比べて明らかに大きい車体、そしてリクライニングしない座席・・・。正式には転換クロスシートといいます。
 現在の新幹線や特急列車ではお目にかかることのできない冷水器。無料です。そういえば最近、ビルでよく見かけたペダルを踏むと冷水が吹き出す飲料用の機械みかけませんね。飲料は有償が基本になってしまったようです。
   飲料といえば子供の頃、コーラの缶が関東では250mmの細い缶で、京都・大阪などでは今と同じ350mm缶でした。京都は夏暑いので、喉も乾くから缶がデカイのかと思っていたら、関東でもいつの間にか350mm缶になっていました。
【撮影:佐野次郎 2009.4.12】

2010/04/26

鉄道博物館クハ181-45

 3月には上野ー金沢間の夜行急行「能登」の臨時列車化にともない、ボンネットスタイルの特急形電車を使用した定期列車がなくなるということで、鉄道ファンの注目が集まりました。
 ボンネットスタイルの列車の元祖は、1958年に東京ー大阪間を6時間半で結んだ特急「こだま」号の151系電車です。今から50年以上前のことになります。
 1964年の東海道新幹線の開業により、151系電車はモーターを増強して181系に編入され、中央本線の特急「あずさ」や、上越線の特急「とき」に使用されました。
 写真のクハ181-45は1965年に汽車会社で完成したものです。1982年11月の上越新幹線開業まで、特急「とき」として活躍しました。最後の頃は、ヘッドライトの撤去で少し間延びした風貌となり、外板のへこみも少々目立ち、車高の異なるグリーン車を組み込んだりと痛々しい姿で走っていたのですが、ここ鉄道博物館では美しい姿で展示されています。

鉄道博物館クモハ455-1

 東北新幹線の新青森への延長開業が近づいていますが、新幹線開業前の東北本線には多くの特急・急行列車が運転され、各駅停車よりも優等列車のほうが多いくらいだったのです。
 昭和50年代には、特急の大衆化が進んだなかでも、特急を補完する急行列車も多く運転されていました。東北本線でも郡山あたりまでは急行の利用のほうが一般的だったのではないでしょうか?
 私は子供の頃、那須へ家族で行きましたが、帰りに利用したのが写真の455系らしき急行電車でした。列車名は覚えていませんが、ずいぶんと混雑していたような記憶があります。
 写真のクモハ455-1号は1965年に日本車輛で完成したものです。新幹線の開業後は仙台地区の普通列車などで活躍し、2006年11月に廃車となりました。
【撮影:佐野次郎 2010.4.12】

2010/04/25

鉄道博物館クモハ101-902

 国鉄~JRの通勤電車が現在のように路線別のラインカラーを採用したのは、写真の101系電車が最初です。1957年に試作車が登場し、1958年から1968年にかけて1.535両が製造されました。
 101系電車はまず中央快速線に投入され、長らく主力として活躍しました。途中で103系も投入されましたが、1985年に201系に代替されるまで活躍しました。いまやその201系もE233系に置き換えられてつい最近営業運転を退きました。
 その他、首都圏では中央・総武緩行線、南武線、鶴見線で活躍しました。また山手線、赤羽線、京浜東北線でも一時使用されていました。私は学生の頃中央・総武緩行線で使用されていた101系にときおり乗車しました。103系や201系と同じ黄色い電車ですが、クーラーもなく、運転台の後ろの窓が大きかったのを憶えています。
 写真のクモハ101-902号は1957年に製造された試作車のうちの1両です。鉄道博物館ができる前は大井工場〈現在の東京総合車両センター〉で保管されていました。15年くらい前ですが、仕事で大井工場を訪問した際に見た記憶があります。

鉄道博物館クモハ40074

 いまは銀色の車体にラインカラーの帯を巻いているJRの電車も、国鉄時代にさかのぼれば車体全面に塗装を施しており、さらに昭和30年代に路線別のラインカラーが導入される前の通勤電車はすべて写真のように茶色でした。
 私が子供の頃、横浜線にまだモハ73形が残っていて、板張りの床・車内に立っているポール・明らかに根岸線の青い103系とは異なる大きな走行音が印象的でした。また東神奈川には車庫があって茶色い電車がいました。
 写真のクモハ40形は1932年に第一陣が製作されました。車体の長さはJRの通勤電車と同じ20mで、片開きの3扉、腰掛も今の通勤電車同様のロングシートです。中央線や青梅線、大阪の片町線・城東線〈現在の大阪環状線〉などで使用されました。
 クモハ40074号は1936年に川崎車輛で完成したもので、前頭部は半流線型を採用しています。当時はモダニズムの影響からか鉄道車両にも流線型が流行し、C53・C55形蒸気機関車に流線型のカバーをかけたり、新快速の元祖ともいえる関西地区のモハ52形のように流線型のデザインを採用した電車もつくられました。
【撮影:佐野次郎 2010.4.12】

113系〈マリ116編成ほか〉

 京浜東北・根岸線から転用された209系電車の転用により、房総地区の113系電車の置き換えが急ピッチで進んでいます。
 ついこの間までモーターをうならせながら東海道線の東京口でも走っていたような気がするのですが、月日が経つのは早いものです。
 写真では、後ろのほうに湘南電車の塗装を再現した編成が連結されています。房総地区ではオレンジにグリーンの湘南色は走っていなかったのですが、まあご愛敬というところでしょう。
 マリ116編成は、2007年4月に国府津車両センターから転入してきた車両で、東海道線で使用されていたものです。
【撮影:佐野次郎 2010.4.11本千葉駅】

211系3000番台〈マリC504編成〉

 房総地区を走る211系電車は、湘南新宿ラインの増発に関連して、宇都宮線・高崎線用の編成にもグリーン車を組み込むことになり、E231系電車の増備により押し出された車両を転用したものです。
 2007年に70両〈5両編成14本〉が転属してきました。ちなみに転用できなかった中間のモーターなし車34両は直接廃車となりました。
 帯色が変更になったほかはそのまま使用されています。近年、中央快速線の201系電車が使用していたシングルアーム式のパンタグラフを増設しました。
 211系も209系の転用改造により、他の路線に転用されることになっています。いまのところ113系の代替が優先されており、211系の転用先は明らかになっておりません。
【撮影:佐野次郎 2010.4.11本千葉駅】

209系2100番代(マリC602編成)

 今年の1月に京浜東北・根岸線での営業運転を終えた209系電車ですが、房総地区への転用工事を終えた車両が活躍をはじめています。
 10両編成を6両または4両編成に短縮し、制御車の座席は一部向い合わせ式に改造されています。またトイレも増設しています。大型スカートや電気連結器を装備したことにより、京浜東北・根岸線時代とは少し印象が異なります。
 ラインカラーは211系やE257系同様、イエローやロイヤルブルーの色調となっています。209系の転用工事により、113系と211系が取替の対象になります。113系は廃車となりますが、211系は他路線に転用されるそうです。
 写真のC602編成はもとウラ67編成で、2009年7月に大宮総合車両センターで転用工事が完成し、10月から営業運転に復帰しています。

2010/04/24

新京成電鉄8000形(8516編成)

 新京成線の8000形電車は、1981年に完成した3次車以降、主回路を界磁チョッパ制御に変更して製造されました。回生ブレーキ付きの「省エネ電車」になったというわけです。
 8000形の塗装は、2006年の京成千葉線への乗り入れを契機として、側面の帯のデザインをN800形に準じたものに変更しています。また先頭車のスカートは製造当時にはなく、あとから増設したものです。
 また8000形の台車は、私鉄の電車では珍しく国鉄103系電車のようにコイルバネ式の台車を採用しています。保守のしやすさを考えて、あえて採用したようです。
 写真の8516編成は、1985年6月日本車輛で完成したものです。新京成線は開業当時には京成から譲渡された古い車両を使用していましたが、8500形の登場により京成に近い水準に進化したといえるでしょう。

新京成電鉄8000形(8502編成)

 京成千葉線には、2006年12月から新京成電鉄からの直通電車が走るようになりました。新京成電鉄の8000形・8800形・N800形が京成千葉線に乗り入れています。
 新京成電鉄線は松戸ー京成津田沼間26.5kmを結ぶ路線です。曲がりくねった線形が新京成線の特徴です。なぜならば旧日本陸軍の鉄道連隊の払い下げを受けて新京成線が建設されたからです。ちなみに京成千葉線には1955年にも一時乗り入れていました。
 新京成8000形は1978年から85年にかけて54両〈6両編成〉が製造されました。製造年次によって仕様に差異があり、主回路にも抵抗制御・界磁チョッパ制御・VVVFインバーター制御の3種類があります。
 写真の8502編成は1978年11月に日本車輛で完成したもので、8000形の第一編成です。主回路は抵抗制御となっています。2001年から製造当初の塗装に復元されています。そのため8000形の他編成とは塗装が異なります。

2010/04/21

京成電鉄3500形(3576編成)

 都心から成田空港への到達時間を大きく短縮する「成田スカイアクセス」の開業を7月に控えている京成電鉄ですが、同じ京成でも千葉線に見出すことができるのは「地域の足」に徹する姿です。
 先日京成稲毛駅を利用した際に印象的だったのが、駅員さんが改札をくぐるお客さんに「いってらっしゃい」と声をかけ、お客さんも「いってきます」と駅員さんにこたえていた姿です。なかなかいいことではないかと思います。
 写真の3500形は72両が在籍していますが更新が進み、写真のように原形をとどめるのは16両だけです。この16両はもう更新されることはないようです。
 写真の3576編成は1979年4月に日本車輛で完成したものです。私はスカイブルーの根岸線103系を利用して大人になったもので銀色のステンレス車は近代的な車両というイメージがあるのですが、3500形の車内は30年という年数の経過を切に感じさせるものです。

2010/04/19

京成電鉄3300形(3320編成)

 京成千葉線は京成津田沼ー千葉中央間12.9kmを結ぶ路線です。開業は1921年で、都心から千葉を結ぶ基幹路線と位置付けられていたそうです。
 現在では京成のメインルートは成田空港方面にシフトしており、千葉線としては10分間隔で普通列車を運転するのが基本で、新京成電鉄の電車で運転される松戸ー千葉中央間の新京成線直通列車と、京成の電車で運転される京成津田沼ーちはら台間の千原線直通列車を交互に運転しているようです。
 京成本線の普通は新形の3000形電車が主力となっていますが、千葉線では3300形・3500形がまだまだ走っている感じです。
 写真の3320編成は、1969年12月に日本車輛で完成したものです。首都圏の通勤電車としては年代物の部類に入るでしょう。
【撮影:佐野次郎 2010.4.11検見川ー京成稲毛間】

2010/04/18

東京都交通局8800形(8805号)

 都電荒川線でもっとも新しい電車が写真の8800形です。老朽化した7500形の置き換えを目的として製作されています。
 機構としてはレトロ電車の9000形同様8500形を基本としていますが、VVVFインバーター装置がIGBT素子を用いたものになるなど、最新の仕様になっています。
 車体の寸法も8500形に準じたものですが、バリアフリーを意図して床面を少し下げ、ホームとの段差をより少なくしています。塗装は以前の都電にはないデザインですが、ホームページによる告知を踏まえて検討したものです。
 8800形は10両が揃う計画となっており、長きにわたって活躍した7500形は全廃される予定になっています。

東京都交通局9000形(9001号)

 8500形を5両新製してから、都電荒川線における新形車両の導入は途絶えていましたが、2007年にレトロ調の9000形電車が製作されました。
 機構としては8500形電車を基本としています。主回路のVVVFインバーターの装置は、現在主流となっているIGBT素子を採用しています。またパンタグラフも最新のシングルアーム式です。
 私は9000形電車の車体は、かつての路面電車の外観をよく「わきまえた」人がデザインしたように思います。正面の3枚窓と腰部の前照灯は昔の路面電車そのものです。戦後間もなく新製された主要な路面電車のほとんどはこんな感じの顔立ちです。例えば都電の6000形然り、横浜市の1300形、大阪市の1711形・1800形などです。
 9000形が起爆剤となったのか、その後8800形による7500形の置き換えが決まりました。また9000形についても2009年に9002号が増備されています。こちらはクリーム色にブルーという塗装です。

踏切の標識

 先週の土曜日、都電の荒川線を撮影していて偶然見かけたこの標識。汽車をモチーフにしていて、踏切が近くにあることを示すものです。
 私が子供の頃、といっても30年以上前ですが、図鑑か鉄道書で確かにこういうデザインの標識を見た記憶があります。いまだに標識としては現役ということですね。
【撮影:佐野次郎 2010.4.10飛鳥山ー滝野川一丁目間】

2010/04/17

東京都交通局8500形(8504号)

 写真の8500形は1990年5月に8501号車が営業運転を開始したもので、都電荒川線として初めて新規に製造した電車でもあります。7500形から数えて既に26年が経過していました。
 車体のデザインはやや丸みを帯びたもので、当時の楽観的な世相を反映しています。そういえば当時経済学者の飯田経夫さん〈故人〉が「豊かさとは何か―現代社会の視点」という新書を書かれていて、「後から考えると、一番良かった時代と将来回想することになるだろう」と述べられていました。当時はもっと良くなるという人も大勢いましたが、実際には飯田さんの云われた通りになっているようです。
 少し脱線してしまいましたが、8500形は主回路にVVVFインバーター制御を採用し、技術的にも飛躍的な進歩を遂げています。また車体のサイズも在来の車両より少しだけ大きくなっています。
 写真の8504号は1993年4月にアルナ工機で完成したものです。残念ながら8500形は8504号と同時に完成した8505号車で製造が中止されてしまいました。

東京都交通局7500形(7505号)

 写真の都電荒川線の7500形は、新型の8800形電車に置き換えられて2011年度に引退することになっています。
 7500形は1964年に20両が製造され、青山車庫に配属されて渋谷ー新橋間の6系統などで活躍しました。今の感覚では青山に都電の車庫があったとは考えられませんが、現在のこどもの城のあたりに車庫があったそうです。また六本木の交差点のあたりも6系統の経由地でした。
 その後7500形は都電の縮小により、城東方面の柳島車庫に配置されたりしたあとで、荒川車庫に集まりました。1977年の荒川線ワンマン化に際して、原形を残しつつも乗降扉をステップレスにするなどの改造が行われました。荒川車庫前に展示されている7504号が当時の姿を残しています。
 1984年に、車体を新しくしてほぼ現在のスタイルになりました。都電としては初めてクーラーを搭載した電車でもあります。当時は通勤電車でもクーラーなしの電車も残っていましたし、一般家庭でも今みたいについてて当たり前という感覚はなかったように思います。

東京都交通局7000形(7022号)

 7000形の7022号車は1977年の荒川線ワンマン化当時の塗装を再現して走っています。この塗装の荒川線に実際に乗車した方もたくさんいらっしゃると思います。
  1977年といえば、路面電車に「新形」が入ることがほとんどなかった時代です。そんな時代の中で、停留所のホームをかさあげして乗り降りも容易にした上で、車両を刷新したということはたいへんなことだと思います。
 ワンマン化前は黄色い車体に赤帯を巻いた7000形・7500形・6000形が荒川線を走っていました。荒川車庫も現在のものとは違う古い建物が建っていました。また王子駅前の停留所は新幹線の高架下になった現在とは違い、上空は広々としていました。
 その後、細々と路面電車にも各地で新車が入るようになり、富山のように新線が開通するところまで出ました。しかしながら路面電車復権というところまではいかないようですね。

東京都交通局7000形(7002号)

 三ノ輪橋ー早稲田間を結ぶ都電荒川線の中でもっともよく走っているのが、写真の7000形電車です。22両が荒川車庫に配置されています。
 7000形は1954年から56年にかけて93両が製造され、都電のほとんどの路線で活躍しました。1977年の荒川線のワンマン化に際して、31両が車体を新製して現在のもとになるスタイルになりました。
 さらに塗装の変更や、クーラーの取り付け、方向幕やビューゲルからパンタグラフへの取替えなど改良を重ねながら現在に至っています。
 7000形は半世紀もの間姿かたちを変えながら走り続けていることになります。当面現役を続けるでしょう。

2010/04/15

西武鉄道10000系(10103F)

 西武鉄道10000系はレッドアローとして有名な5000系電車の後継車両に位置付けられます。当初は新宿線の特急用として運転を開始し、その後池袋線系統にも導入され5000系を置き換えています。
 今回撮影に訪問した椎名町駅は池袋の隣の駅ですが、近隣にはマンションなどの高層建築はそれほど見当たらず、低層住宅が密集しています。ちなみに手塚治虫・藤子不二雄・石ノ森章太郎が駆け出しの頃に住んでいたトキワ荘もこの駅の近くにあったそうです。
 駅もこじんまりとしていて、改札をくぐるとホームにすぐ出られるという人にやさしい駅ですが、改築されて橋上駅舎になります。既に工事も開始されています。
 写真の10103Fは1994年8月に日立製作所で完成したものです。室内のリニューアルやパンタグラフのシングルアーム式への交換が行われています。

西武鉄道20000系(20152F)

 20000系は101系の代替を目的として、1990年から2005年にかけて144両が製造された電車です。営団〈当時〉有楽町線乗り入れ用の6000系を基本として改良を施した電車であり、また日立製作所の手によるA-trainとして東京メトロ05系13次車や東武50000系などに連なる電車でもあります。
 ところで6000系も20000系もブルーをアクセントにしていますが、西武ライオンズのユニフォームと関係あるのでしょうか?
 今では西武と阪神だけが電鉄系のプロ野球球団で、阪急・南海・近鉄の3社はプロ野球から撤退してしまいました。特に近鉄は全盛期の西武の対抗馬として印象にのこるだけに残念です。ついこの間優勝したような気がするのですがね・・・。
 写真の20152Fは2000年12月に日立製作所で完成したものです。今年に入ってから、新宿線から池袋線に転じてきたようです。

西武鉄道9000系(9105F)

写真の 9000系は新2000系とよく似た電車ですが、101系電車の初期形の電気部品を利用して、1993年から1998年にかけて所沢車輛工場で製作された電車です。
 新製された車体は新2000系に準じたものですが、細部については当時の最新型車両だった6000系の仕様も一部取り入れて変更しています。また10両固定編成ですので、収容力の大きい電車でもあります。
 当初は101系と同じく抵抗制御だったのですが、補修用の部品が今後入手しにくくなることも考えられ、VVVFインバーター制御に更新されました。部品は20000系と共通化を図っています。
 写真の9105Fは1996年に所沢工場で製造され、2006年9月に東急車輛でVVVFインバーター制御に改造されています。その際に先頭車に車番を表記するようになりました。

2010/04/14

西武鉄道3000系(3011F)

 3000系の3011Fは、2009年5月から「銀河鉄道999」のラッピングを施して走っています。鉄道車両の塗装としてはどうかと思いますが、とにかく目立ちます。
 「銀河鉄道999」は松本零士が手掛けたアニメで、鉄郎とメーテル〈写真の電車の先頭に顔が描いてある〉が銀河をむすぶ鉄道に乗って、途中に立ち寄る星でいろんな事件に巻き込まれるという話だったと思います。
 機関車はC62をモデルにしているというかそのもので、客車はスハ44形?かはともかく旧形客車そのものです。松本零士は「宇宙戦艦ヤマト」で戦艦「大和」を、「銀河鉄道999」でC62を宇宙空間に旅立たせたということになります。凄い発想ですね。
 「銀河鉄道999」には寡黙すぎる車掌が出てきて、少し怖かったのですが大泉学園駅には3011Fの塗装が変わる直前に車掌の像が建てられ、発車メロディも「銀河鉄道999」で使われた曲になったそうです。

2010/04/13

西武鉄道3000系(3009F)

 西武鉄道3000系は、池袋線用の101系~301系の後継として1983年から87年にかけて製作された電車です。
 101系~301系と異なり、主回路が界磁チョッパ制御となり、余った電力を架線に戻すことができる回生ブレーキを採用しています。
 20m・3扉というフォーマットを西武鉄道のそれも池袋線だけが、80年代後半まで維持していたのか、私は不思議だったのですが、ほとんどの乗客が池袋まで乗りとおすために座席を多めにしていたというわけだったのですね。
 いまでは練馬で東京メトロ有楽町線・副都心線への直通列車に乗り換える乗客も多く、池袋線でも2000系・9000系・20000系といった4扉車が主力となり、101系や3000系など3扉の電車は池袋口の各停を中心に運用されているようです。

2010/04/12

西武鉄道101系(1241F)

 西武池袋線を代表する車両だった101系電車も、オリジナルスタイルの初期形は多摩川線で細々と残るだけとなり、ブラックマスクの後期形もいつの間にか池袋線では最古参の電車になってしまいました。
 池袋線用としては26両が残るだけになっています。今後30000系が増備されることによって、池袋線からは姿を消すことになるのでしょう。
 話は変わりますが、私こと佐野次郎にとって、普段乗車することのない電車を撮影のためだけに訪問することはとてもいい気分転換になっています。
 昨年の11月に訪問したときは、椎名町駅のホームから55mmで撮ってみましたが、今回は椎名町駅を降りて椎名町2号踏切から200mmの望遠で狙いました。

2010/04/11

都電と飛鳥山公園の桜

 飛鳥山公園はJR京浜東北線の王子駅の北側にある公園で、お花見の定番スポットでもあります。なんと小形のケーブルカーみたいな乗り物まであります。
 飛鳥山公園に沿って都電としては唯一の併用軌道区間があります。やはりたくさんの車に囲まれて走る都電は少し窮屈そうですね。
 桜の花もかなり散ってしまいましたので、東京近郊では今週末がお花見のラストチャンスということになるでしょう。
 飛鳥山公園も王子の駅前からすごい人出でした。都電も普段にもまして混雑していて、乗り切れずに次の電車を待つ人もいたようです。
【撮影:佐野次郎 2010.4.10】

東京地下鉄07系(07105F)

 東西線では2007年3月の新形ATCの導入にともない、1964年12月の高田馬場ー九段下間開業以来活躍してきた5000系電車の最後の40両が引退することになりました。
 もともとは05系の増備を行う計画でしたが、ドアのレイアウトが7000系・10000系と異なるために副都心線のホームドア導入に対応できない有楽町線用の07系を転用することになりました。
 東西線の車両基地である深川工場で、保安装置の取替や、座席モケット・ラインカラー帯の変更など東西線仕様への改造工事が行われました。
 写真の07105Fは1994年9月に日本車輛で完成したものです。07系としては2次車に相当し、1994年12月の小竹向原ー新線池袋〈当時・現在の副都心線〉開業に伴い製造されました。

東葉高速鉄道2000系(2109F)

 東葉高速鉄道は西船橋ー東葉勝田台間16.2kmを結ぶ路線で、1996年4月に開業しました。工事期間の長期化と建設費の高騰のため、開業当初は新車を用意できず東西線の5000系を改修して1000系として使用してきました。
 しかし相互直通運転を行っている東西線が新形ATCを導入することになり、検討の結果として東葉高速鉄道としても新車に置き換えることになりました。
 こうして登場したのが東京メトロと共同開発した2000系電車で、05系の13次車と仕様を共通化した上に、メーカーへの発注も一本化したことで大幅なコストダウンを図っています。
 写真の2109Fは2006年12月に日立製作所で完成したものです。ちなみに2000系の導入により廃車となった1000系の中にはインドネシアに渡って活躍しているものもあります。

東京地下鉄08系〈08103F〉

 東西線の05系11次車と仕様をそろえて製造された半蔵門線用の08系は、2003年3月の水天宮前ー押上間の延伸に伴い製造されたものです。
 半蔵門線の押上延長によって、東武伊勢崎線はいままでの日比谷線に加えて半蔵門線とも相互直通運転を行うことになりました。当初は伊勢崎線からの直通列車が日中に20分ごとと少なく不評でした。その後のダイヤ改正で是正され、現在では10分間隔にまで増えています。
 初代の半蔵門線用の8000系も直線を強調したデザインでしたが、この08系もエッジの利いた鋭いデザインの電車です。近年の電車らしく床面が低くなり、ホームとの段差が縮小しています。
 写真の08103Fは2003年1月に日本車輛で完成したものです。いまのところ2003年に60両が製造されてから08系の増備は行われておらず、8000系のVVVFインバーター化工事が進んでいます。
【撮影:佐野次郎 2010.3.28つくし野駅】

2010/04/10

東京地下鉄05系(05136F)

 東西線の05系は、2003年度に製造された11次車では、安全度の向上とコストダウンを目的として半蔵門線用の08系との仕様の共通化が図られました。
 そういえば以前に半蔵門線用の8000系が一時的に東西線で使用されるということがありました。両線では車両の融通がしやすいのでしょうか? 
 さらに考えると東京メトロの路線で大型車両を使用する東西線・千代田線・有楽町線・半蔵門線・南北線・副都心線では同じ系列の車両を使えばいいようにも思いますが、そうはいっても趣味的には現状が好ましいです。
 写真の05136Fは2003年2月に川崎重工で完成したもので、05系の11次車に相当します。パンタグラフがシングルアーム式になっていますね。

東京地下鉄05系(05128F)

 東西線の05系の増備は1994年の05124Fを最後にいったんとりやめ、5000系のうち23編成は更新修繕をおこなってそのまま使用していましたが、1999年から05系の増備が再開されました。
 1999年に製造された8次車から、前面のスタイルが一新されました。傾斜を大きくしてエッジを強調したスタイルが採用されました。
 あくまで私個人の趣味の趣味ですが、均整のとれていた今までの05系のスタイルを何故変えるのか非常に疑問でした。何か目じりが吊りあがったようにも見え、不自然な感じがしてそれほどいいデザインではないように思っていました。最近はシャープでいいデザインだと思うようになりましたが。
 写真の05128Fは05系の28編成で、2000年12月に近畿車輛で完成したものです。05系としては9次車に相当します。

2010/04/08

東京地下鉄05系(05105F)

 東京メトロ東西線は、東京の地下鉄では珍しく長い高架区間を持ち、古くから快速運転を行っている路線です。またラッシュ時には激しく混雑する路線でもあります。
 東西線の主力車両は1988年から2004年の長期にわたり430両が製造された05系です。大小のモデルチェンジを繰り返している車両ですので、同じ05系でもバリエーションがあります。
 東西線には新形の15000系が投入されることになっていて、2011年度までに130両が製造されるそうです。15000系の投入により05系のうちチョッパ制御を採用した05101F~05113Fが置き換えの対象になることが噂されています。
 写真の05105Fは1989年6月に川崎重工で完成したもので、05系の2次車に相当します。新形に置き換えられて廃車されるには早いように思いますがどうなるのでしょうか?

2010/04/06

根岸森林公園の桜

 東京近郊では桜が最盛期を迎えたということで、この間の土日にはお花見に出かけられた方も多いのではないでしょうか?
 JR根岸線の根岸駅から坂をのぼりきったところにある根岸森林公園は、戦前にあった根岸競馬場の跡地を公園にしたものですが、先週末には花見をする人でにぎわいました。普段は地元民の運動場と化しているので、写真のように駐車場が満杯になることもないのです。
 桜が咲くことで、いつも暮らしているまちが少し違った姿を見せてくれます。雨や強風によってすぐに散ってしまうのですが、そうして春がやってきます。
 春といえばプロ野球の開幕です。私は阪神ファンですが、好調なスタートをきったと思いきや、中日には3連敗してしまいました。しかし私こと佐野次郎は今年もそれほど勝ち負けにはこだわらず、のんびりとシーズンを楽しむつもりです。ちなみに私の職場の最寄り駅の海浜幕張駅は千葉マリンスタジアムの最寄り駅でもありますが、久保康友・清水直行といったエース級の投手や、橋本将・早川大輔といった準レギュラークラスの野手を次々に放出した千葉ロッテが上々の滑り出しです。会社でも言えることですが、チームというものはフタを空けてみないとわからないですね。と思ったら中継ぎで実績のある川崎雄介投手が阪神に金銭トレードだそうです。いくらなんでも気前良すぎでは?
【撮影:佐野次郎 2010.4.3】

2010/04/04

青梅鉄道公園110

 110形蒸気機関車は新橋ー横浜間の鉄道開業に際して輸入されたものです。鉄道博物館に保存されている1号機関車とは同級生ということになります。
 110号機関車は1871年イギリスのヨークシャー社で完成したもので1形式1両の存在です。1923年に保存することが決まり、青梅鉄道公園が開園する前は大宮で保管されていました。
 青梅鉄道公園は鉄道開通90周年を記念して1962年10月19日に開園しました。青梅線の青梅駅から15分ほど坂をのぼったところにあります。規模では梅小路蒸気機関車館にはかないませんが、収蔵されている機関車の製造時期のレンジの長さでは当公園がまさります。
 なにぶん屋外展示であるため、車両も痛みやすいようで私が撮影した1992年3月にはくたびれた感じの機関車がほとんどでした。1997年には三か月休園して補修を行い、さらに2007年6月には屋根をつけたそうです。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

青梅鉄道公園5540

 5500形蒸気機関車は1893年から1898年にかけてイギリスのベイヤー・ピーコック社で72両が製造されたテンダー式の蒸気機関車です。
 ボイラーが細く重心の低い非常にスタイルの良い蒸気機関車です。煙突が高いのがいいアクセントになっていますね。ピーコック社が製造したテンダー式機関車なので「ピーテン」として親しまれていました。
 この機関車は最初から鉄道省に在籍していたのは6両だけで、60両は東北本線・高崎線の前身である日本鉄道から、6両は総武本線の前身である総武鉄道から国有化と同時に編入されたものです。
 5500形は幹線で活躍したあと、国産機関車の台頭によりローカル線へと転じていきました。横浜線でも走っていたそうです。写真の5540号は建設用として最後まで残っていたもので、1961年に廃車されました。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】
 

青梅鉄道公園2221

 2120形蒸気機関車は1899年から1905年にかけて、268両が投入されました。ほとんどがイギリスから輸入されたものですが、10両だけ国産された車両も存在していました。
 2120形というよりも、2100形とともにB6形という名称のほうが有名ではないでしょうか?全国で活躍しましたが、戦後は主に入替用となり1963年8月まで在籍しました。
 同じB6形である2100形の2109号機は1970年から1975年まで大井川鉄道で動態保存されていました。1993年に再整備された上で日本工業大学に引き取られ、稼働状態を保っています。100年以上前に製造された機関車が今でも動くって凄いですね。
 写真の2221号機は1905年イギリスのノース・ブリティッシュ社で完成したものです。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

青梅鉄道公園8620

 8620形蒸気機関車は、以前に輸入した蒸気機関車が老朽化したために、代替用として製造された旅客用のテンダ式蒸気機関車です。
 1914年から1929年の15年間に687両が製造されました。1年先行して製造を開始した9600形と同様、純国産の技術を採用したものです。全国の路線で長い間活躍しましたが、五能線などローカル線での活躍が有名です。
 京都市にある梅小路蒸気機関車館では、最近になり明治期の1080号機関車を展示しましたが、開設当初は9600形・8620形が最古の機関車でした。やはり純国産ということで、保存の対象になったのでしょう。
 写真の8620号は8620形蒸気機関車の1号車で、1914年に汽車会社で完成したものです。1958年に四国の松山で廃車となりました。青梅鉄道公園に搬入されるまでは、伊予西条機関支区で保管されていたそうです。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

青梅鉄道公園9608

 9600形蒸気機関車は、輸入した蒸気機関車の使用経験を踏まえて純国産の技術で製造された貨物用のテンダ式蒸気機関車であります。
 1913年から1926年にかけて770両が製造されました。9600形の増備によって、輸入機関車の淘汰を進めています。
 1976年3月に北海道の追分機関区における9600形の構内入替運用の終了をもって、国鉄の蒸気機関車の運用は終焉を迎えました。国鉄最後の蒸気機関車は、旅客用としてはC57形なのですが、C57形が引退してから約1年のあいだ9600形が現役だったのです。
 写真の9608号機は、1913年に川崎造船所の兵庫工場で完成したものです。1962年7月まで阪和線の竜華機関区で使用されてから、青梅鉄道公園に搬入されました。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

2010/04/03

青梅鉄道公園ED161

 青梅鉄道公園には、ED16形電気機関車も展示されています。1931年に18両が製作された勾配路線用の小型の電気機関車です。
 青梅鉄道公園に展示されているSLのほとんどは、青梅線で走っていたわけではありませんが、ED16形は1983年まで青梅線で実際に使用されていました。
 国鉄形の旧形電機としては、遅くまで走っていた形式といえます。手頃な大きさで重宝したのでしょう。最近西武鉄道で小型のE31形電気機関車が現役を退きましたが、EF65形と同じ大きさのE851形はずいぶん昔に引退してしまいました。
 写真の1号機は1931年に三菱で完成したもので、1980年に青梅鉄道公園に搬入されました。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

青梅鉄道公園C515

 今ではピカピカの姿で大宮の鉄道博物館に展示されているC51形蒸気機関車の5号機は、鉄道博物館ができる前は45年の長きにわたり青梅鉄道公園で保存されていました。
 C51形蒸気機関車は1919年から1928年にかけて289両が製造された、旅客用のテンダー式機関車です。東海道本線で特急列車の牽引用にも使用され、従来の機関車に比べて時間を大きく短縮しています。戦後は山陰本線などに転じて1966年まで使用されました。
 C51形は大正生まれの機関車であり、D51形に比べると実にクラシカルなスタイルです。煙突の丸みも優美なものです。なんとなくバイオリンの丸みに通じるものを感じます。また「大正ロマン」とはこういうものかなどとも思ったりもします。
 写真の5号機は1920年に鉄道省浜松工場で完成したものです。1962年2月に伊勢機関区で現役を退きました。同年10月から青梅鉄道公園で展示されたあと、2007年10月の鉄道博物館のオープンに伴い移設されました。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

青梅鉄道公園D51452

 青梅鉄道公園にはD51形蒸気機関車も展示されています。D51形蒸気機関車は「デゴイチ」の愛称で知られる国鉄の貨物用の蒸気機関車としては決定版ともいえるもので、1936年から1945年にかけて1115両が製造されました。
 私は本線を走る蒸気機関車はを見たことは一度しかありません。学生の頃、合宿先の水上のホテルの温泉からD51形の498号機が走るところを見ました。なにしろ石炭をボイラーで燃焼させて発生した蒸気で車輪を動かすという代物ですから凄い迫力でした。
 乗務員の勤務も過酷なものでした。Rail Magazine誌に「SL甲組」の肖像という連載がありますが、SLを動かすということが大変なことだということがよくわかります。そういえば昔「新幹線大爆破」という映画で、千葉真一扮する新幹線の運転士が、速度を落とすと爆破されてしまうという状況にいらだち、「SLなら犯人の自由にさせないのに」というようなことをいって悔しがるという場面がありました。それだけSLの乗務員の役割は重かったのでしょう。
 写真の452号機は、1940年に汽車会社で完成したものです。東北本線などで活躍したあと、最終的には関西本線など使用されていました。汽車会社という会社は1972年に川崎重工に吸収されたので今はありません。東京メトロ東西線の東陽町駅に近い江東区の砂町に東京製作所がありましたが、現在ではちょっと想像できないですね。
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】

2010/04/01

青梅鉄道公園C111

 C11形蒸気機関車はローカル線用のタンク式機関車で、1932年から1947年の間に381両が製造されました。全国のローカル線で長期間に渡り活躍した機関車です。
 C11形には大井川鉄道で動態保存されている仲間もいます。また酔いどれ(失礼)サラリーマンの街、新橋駅前に鎮座するSLも同じC11形であります。
 私にとってC11形といえば、子供の頃、広田尚敬さんの写真で親しんだ存在でした。保育社・山と渓谷社などから写真集が出版されており、貪るように見ていました。数年前ネコ・パブリッシング社が出版した「蒸気機関車たち」という写真集を購入し、当時親しんだ写真が大判で美しく甦っており感銘を受けました。さらに今年に入ってから何冊も広田尚敬さんの写真集が発売され、うれしいかぎりです。
 青梅鉄道公園で保存されている1号機は、1932年に汽車製造で完成したものです。写真を撮影した1992年3月には煙室扉のハンドルもないという少々気の毒な姿で展示されていました。屋外の展示では、やはり維持修繕に苦労を伴うものだと思います。 
【撮影:佐野次郎 1992.3.1】