2015/12/30

My鉄道博物館 二次開業

拙宅のダイニングにあるカップボードの一角を用いて、Nゲージ鉄道模型を展示しておりますが、この度、もう一段のスペースを確保し、場所を二倍に拡張して合計36両を展示することができるようになりました。
この度の拡張のために、実家から電気機関車を中心に車両を持ってきました。私のNゲージコレクションは主に学生時代から社会人の初期にかけて、横浜駅西口近くにあったALIC日進で買い求めたものです。
今はドンキホーテになっているところで、地下1階が模型売り場でした。あとは本牧にあった篠原模型店や、新橋の交通書房、麻布十番にあった麻布ホビー、などで購入したのだと思います。
Nゲージも多品種少量生産が主流になっているのでしょうか?新規の購入は控えようと思っておりますが、手持ちの模型たちは大切に扱っていていく所存です。他にも手持ちがありますので、展示は少々入れ替えていく予定であります。


新宿駅の115系

今では首都圏に姿を現そうものなら、それだけでひと騒動になりそうなスカ色の115系ですが、1985年3月のダイヤ改正までは恒常的に新宿駅に乗り入れており、立川・高尾発着が基本となり最終的に1993年12月のダイヤ改正で新宿駅への乗り入れがなくなりました。
中央本線には、松本までの電化が完成した翌年の1966年に、三鷹電車区に115系電車が投入され同年12月から客車による普通列車の一部が電車化されました。115系の塗色は元の70系電車にあわせて115系では初の「スカ色」になりました。
3両編成を基本にしたため、制御電動車のクモハや、高さの低いトンネルに対応するための低屋根の電動車800番台が新たに用意されるなど、既存の東北・高崎線用とは少し違った115系が登場しました。1975年には普通の全電車化と70系置き換えのため冷房装備の300番台が投入されました。
中央線の115系は豊田車両センターに移り、2014年12月に運行を終了しました。写真を撮影した1984年当時は、隣に写っている有蓋貨車などが一般的で、新宿駅に貨物用の線路が多く残るなど現在とはずいぶんと様相が異なりますね。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 新宿駅】

2015/12/27

485系1000番台「つばさ」

このところ撮影にはほとんど出かけておりませんが、鉄道ピクトリアル誌だけは、毎号欠かさず購入しております。21日発売の2016年2月号の特集は、「国鉄形特急電車の今」であります。JR移行直前の特急電車の転配属の記事は、非常に懐かしく感じるものでした。
確かに、いまや国鉄形特急電車による定期運行はほとんどありません。もうすぐ廃止になる青森ー函館間の「白鳥」や、伊豆に向かう「踊り子」など185系による列車などわずかしか残っておりません。
東北・上越新幹線開業前の、東北本線上野口では、特急・急行電車の賑わいは凄いものでした。優等列車の本数が、普通の本数と拮抗していたのではないでしょうか?当時は急行の存在感が高く、特急よりも一般的でした。
写真の485系1000番台「つばさ」は、上野ー秋田間の運転で、1982年の東北・上越新幹線の大宮開業後も上野行きが1往復残されていました。1985年3月の新幹線上野開業で上野行きはなくなりました。現在では、山形・秋田新幹線が発展的にその役割を継承していますね。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/12/26

クハ115 320

もうすぐ2016年を迎えようとする現在、さすがに国鉄時代に製造され、JRで継続使用されている車輌もかなり少なくなってきました。国鉄が分割・民営化されてJRが発足した頃は、103系・113系・115系はそれぞれ1000両以上が在籍していたはずです。
今では、国鉄形車両が走るだけでも、けっこうな注目を集めたりしているようです。注目の対象も、SLブームから始まって、路面電車、在来線特急、ブルートレインときて、現在は国鉄形に注目といったところでしょうか。
確かに銀色の電車ばかりになってしまった昨今の通勤電車に比較すると、国鉄形電車は温かみがあって味わい深いですね。
写真のクハ115 320は、1974年3月に川崎重工で完成し、小山電車区に新製配置されました。1986年3月に下関運転所に転属しています。広島地区には227系電車の投入が本格化していますので、近いうちに現役を退くことになるでしょう。
【撮影:佐野次郎 2013.9.11 広島駅】

2015/12/06

オハネフ25 13

私佐野次郎は、昭和44年生まれでして、鉄道の花形といえば、ブルートレインと在来線の特急列車という印象が強いのであります。SLブームや路面電車の全盛期を知るのには、少し遅すぎた世代でもあります。
ブルートレインの中でも、王道はやはり東京と九州を結ぶ、「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「富士」といった名列車で、私も強い憧れを感じました。国鉄最後のダイヤ改正となった1986年11月改正で「あさかぜ1.4号」がグレードアップされたのには大いに期待したものでした。
時代は流れ、ブルートレインの代名詞になったのは、1988年3月改正で登場した上野ー札幌間の「北斗星」でした。個室寝台車や食堂車は在来車両の更新でありながら、大いに注目を集めました。JR北海道とJR東日本の所属車で仕様の違いがあったり、クルーズトレイン的な要素があったのが良かったのでしょうね。
写真のオハネフ25 13は、1974年3月に富士車輌で完成し、向日町運転所に新製配置されました。「北斗星」への転用に先立ち、耐寒・耐雪設備を強化し、乗降扉を折戸から引戸に変更しております。いつかは乗ろうと思っていた「北斗星」ですが、周知の通り3月改正で廃止になってしまいました。
【撮影:佐野次郎 2013.4.18 大宮駅】

2015/11/21

煮込みハンバーグ

ハンバーグといえば、子供の頃から大好きなメニュー。外食でたまにステーキハウスに入っても、メニューにあればついつい選んでしまう、そんなメニューだと思います。
とはいうものの、月に何度も食べるのはせいぜい20代から30代までで、40代の半ばの今となっては、月イチで食べるか食べないかというのが現状です。
私は決して、ハンバーグ通ではありませんが、つばめグリルのハンブルグステーキなどは、抜群に旨いと思いますね。肉の旨みが伝わりますし、付け合わせのジャガイモがまた最高です。
自宅でも、煮込みハンバーグを久々に作ってみました。料理酒をかけて、ハンバーグをじっくりと弱火で焼いておくのがポイントでしょうか?付け合わせのジャガイモはメークインを選択。市販のハンバーグソースを使ってじっくりと弱火で煮込みます。

My鉄道博物館 展示車両増備


拙宅のカップボードの一角に、学生の頃からコツコツと集めたNゲージを飾っているのですが、この度第二次展示車両としてKATOのEF57、EF65PとトミックスのEF62形電気機関車を追加しました。
とはいうものの、新規に購入しているわけでばなく、一人暮らしを始めた時に、実家に置いてきた模型を拙宅に持って帰ってきたものです。
家内に相談しながら、これからも少しずつ、実家から持ってきたNゲージを展示しようと思っています。新しい模型にも興味はありますが、費用対効果を考えますと、実家に残してある分も含めて既存の車両の活用が優先になると思います。
不思議なもので、ダイニングにある模型を眺めるだけでも癒しの効果はありますね。無理なく柔軟な考え方で、今後も鉄道趣味を楽しもうと思っております。

2015/11/15

梅小路蒸気機関車館 オハ46 13

オハ46形客車は、列車の高速化と運転費・保守費などコストダウンを意図して軽量化を図ったもので、1955年に60両が製造されました。スハ43形客車と同じ形態ですが、約2t軽量化されています。
60両のオリジナルの他、スハ43形のうち、1954年度1次発注以降の160両が、オ級(自重32.09t以下)に収まっている事がわかり、1956年2月~3月にかけてオハ46形に編入されました。
1980年代初めまで、急行列車や普通列車などで使用されました。冷房もなく。ドアも自動ではありませんので、現在の感覚では少し想像しにくいかもしれませんね。
写真の13号は、1955年に汽車製造東京支店で製造されました。昨年には美しい姿に整備され、現在建設中の京都鉄道博物館に収蔵されます。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/11/07

梅小路蒸気機関車館 C56 160

C56形蒸気機関車は、国鉄の前身である鉄道省が閑散路線用として、1935年から39年にかけて160両を導入したものです。
軽量・小型でありながら長距離の運用が可能なことから軍部に注目され、太平洋戦争中に90両が供出され、タイ・ビルマに送られました。うち46両は戦後もタイ国鉄で使用されました。
戦後、国鉄には68両が残り、北陸・甲信越・中国・九州地方で運用されました。その他、北海道・横浜地区でも少数が入換用に使用されました。小海線での活躍が名高いですね。
写真の160号機は、1939年4月に川崎車輌兵庫工場で完成したものです。1972年から梅小路蒸気機関車館で保存されており、1980年から本線運転に従事しています。2017年を目途に本線運転の役割をD51 200と交代することになっています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/10/12

My鉄道博物館を開設

My鉄道博物館というのは、いかにも大げさですが、カップボードの一角に手持ちのNゲージ鉄道模型を飾り始めました。ささやかなものですが、ダイニングにあるので、毎日眺めることが可能です。
Nゲージ鉄道模型を学生の頃から、コツコツと買い集め、一旦は鴨居レイアウトまで製作したものの、維持できずに廃線となり、お座敷運転すらままならない期間が続いておりました。
せめて静態保存だけでもしようと思い、ようやくカップボードの一角を確保することに成功しました。機関車や先頭車などをより選って15両を展示できます。
今は3両分はあえて場所を空けてあります。実家からKATOのEF81の北斗星色、EF65P、トミックスのEF62を持ってきて飾ろうと思っております。

梅小路蒸気機関車館 C53 45

C53形蒸気機関車は、鉄道省がアメリカから輸入したC52形をもとに国産化したもので、1928年から29年にかけて汽車製造・川崎車輌で97両が製造されました。
当時は、客車が鋼製になりつつあり、列車の重量も木製車体に比べて20%ほど増すことから牽引力の増大が求められていました。そこで先進国で実用化されていた3シリンダー方式の技術を用いて従来のC51形よりも強力な機関車をつくることになったのです。
C53形は、東海道・山陽本線で特急・急行列車牽引の主力として使用されました。しかし3シリンダー方式は保守が難しかったそうで、また1940年代になって2シリンダー方式ながら強力なC59形が投入されたことにより、1948年から50年にかけて現役を退きました。
写真の45号機jは、1928年に汽車製造で完成しました。1950年に廃車されてからは、教習用車両を経て、鷹取工場で保管されていました。1961年に走行可能な状態に復元され、記念走行を行ってから翌年より大阪の交通科学館で展示されました。1972年には梅小路蒸気機関車館に移され、静態保存されています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/10/03

梅小路蒸気機関車館 C59 164

C59形蒸気機関車は、主に主要幹線における旅客列車の牽引を目的に、1941年から43年にかけて100両、1946年から47年にかけて73両が川崎重工・日立製作所・汽車会社で製造されました。保守に手間のかかるC53形蒸気機関車を代替するものでした。
私としては、一番好きな蒸気機関車の形式であります。全長が長くスマートで美しいスタイルの機関車だからです。子供の頃読んだカラーブックス「蒸気機関車」でも魅力的な写真がありました。その他にも記録写真が多く残されているのはうれしいことです。
大型・重量級の機関車ですので、使用できる線区も限られ、1970年の呉線を最後に現役を退きました。保存された車両も少ないですが、梅小路蒸気機関車館や九州鉄道記念館など恵まれた環境で保存されているのは喜ばしいです。
写真の164号機は、1946年に日立製作所笠戸工場で完成し、梅小路機関区に新製配置されました。1950年に糸崎機関区に転属し、山陽本線・呉線で活躍しました。梅小路蒸気機関車館では開館当初から静態保存されています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/09/18

梅小路蒸気機関車館 C55 1

C55形蒸気機関車は、1935年から37年にかけて62両が製造された旅客用のテンダー式蒸気機関車です。C51形とC57形の中間に位置する蒸気機関車ということがいえましょう。
そのうち2次車に相当する1936年製の20~40号の21両は、流線型のカバーをつけた姿で登場しました。当時の流行であり、また煤煙が客車にかかるのを防ぐ効用が期待されましたが、実際には効果がほとんどなく、早々にカバーを外して本来の姿に戻りました。
C55形は、改良増備形ともいうべきC57形と良く似ていますが、スポーク動輪を採用しているのでより軽快なスタイルに感じます。記録写真にも魅力的なものが多いです。広田尚敬さんも珠玉の1枚を残されています。
写真の1号機は、1935年3月に川崎車輌で完成しました。小樽築港機関区に新製配置され、その後も転属しつつ北海道で使用されました。1972年10月から梅小路蒸気機関車館で動態保存されましたが、1979年3月に静態保存に切り替えられ、廃車となっています。
【撮影:佐野次郎 2015.519】

2015/09/12

梅小路蒸気機関車館9633

梅小路蒸気機関車館はご承知の通り、2015年8月30日をもって閉館となりました。とはいうものの、来春には京都鉄道博物館として、新たにオープンするわけですから何ら悲観する必要もないわけです。
小生が初めて梅小路蒸気機関車館を訪問したのは、昭和50年代の前半だったと思います。京都に母の実家がありましたので、祖母に連れられて行ったのです。当時はかなりの蒸気機関車が有火状態で保存されていました。
写真の9633もそうですし、C1164やD50140なんていう機関車も煙を吐いていました。京都市電も縮小の途中でしたが、健在ではありました。梅小路蒸気機関車館のすぐ近くの、山陰本線との交差部で軌道が掘り下げてあるのが印象的でした。
9600形は、1913年から13年間に770両が製造された貨物用の蒸気機関車です。1975年に旅客用のC57が引退し、旅客用のSLが全廃されてからも1976年3月まで追分機関区の入換用として現役を継続しました。最後のSLは、9600形だったのです。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/08/09

京都鉄道博物館クハ103-1

2016年春の開業をめざして京都鉄道博物館の建設が進められております。開業後は隣接する梅小路蒸気機関車館を取り込んで一体として運営されます。
国内では最大となる53両もの鉄道車両が展示されることになっており、徐々に建設地に搬入が進んでおります。中には写真のように梅小路蒸気機関車館から撮影できる車両もあります。
収蔵車両の中には、国鉄の通勤型電車の代表格である103系電車も含まれます。1963年から1984年にかけて総計3.500両弱が製造されたという凄い車両です。私にとっては、京浜東北・根岸線用としてもっとも長い付き合いの鉄道車両でした。
写真のクハ103-1は、1964年5月に日本車輌で完成したものです。山手線用として池袋電車区に新製配置されました。1971年4月には京浜東北線に転用され、1976年4月には大阪環状線用となり、森の宮電車区に転属しました。2011年3月に廃車となりましたが、最終配置は阪和線の日根野電車区でした。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19 梅小路蒸気機関車館から撮影】

2015/07/19

京福電気鉄道モボ631形(モボ633)

嵐電の車両は形式数は多くても、基本性能が揃えられているので、車両運用の自由度が高く、併結も自在に行えるようになっています。ただし最新型のモボ2001形2両だけが例外で、2両編成もモボ2001形同士で併結する限定運用になっています。
また嵐電の営業用車両の車体は、単行運転ができる路面電車の車両としては、幅・長さとも国内最大クラスとなっています。
モボ631形は、ク201形の機器と手持ち品を流用して車体を更新してできた車両で、1995年から96年にかけて3両が製造されました。
写真の633号は、1996年6月に武庫川車両で完成したものです。モーターはモボ121形の発生品を使用し、制御器と台車は新製しております。撮影地はかつて京都市電と平面交差していた地点です。
【撮影:佐野次郎 2015.5.18 西院ー西大路三条間】

2015/07/17

京福電気鉄道モボ611形(モボ612)

京福電気鉄道の現有車両は、8形式28両の営業用車両と電動貨車1両の合計29両です。車両の塗装は、以前はダークベージュとダークベージュのツートンカラーが基本でしたが、現在は京紫色の新塗装への塗り替えが進行中です。
その他は、前回取り上げたパト電車や、レトロ調電車、広告電車などバラエティに富んでいます。また友好関係にある江ノ島電鉄を模した塗装を施している車両もあります。
モボ611形は、モボ111形の機器を流用して車体更新した車両です。1992年から93年にかけて6両が登場しています。
写真の612号は、1993年7月に武庫川車両で更新工事を完成しております。京紫色ですが、タリーズコーヒーのラッピングを側面に施した姿で走っておりました。
【撮影:佐野次郎 2015.5.18 帷子の辻ー太秦広隆寺間】

2015/06/27

京福電気鉄道モボ101形(モボ105)

嵐電の愛称で親しまれている京福電気鉄道嵐山線は、四条大宮ー嵐山間7.2kmの嵐山本線と、北野白梅町ー帷子の辻間3.8kmの北野線からなり、1910年3月に嵐山電車軌道が四条大宮ー嵐山間を開業したのが起源となっております。当初は全区間が単線でした。
1918年4月に、嵐山電車軌道は京都電燈に合併されました。その後、1925年~26年にかけて北野線北野ー帷子の辻間4.2kmが開業しました。また1925年~28年3月にかけて嵐山本線の複線化が行われました。さらに戦時下の1942年3月に設立された京福電気鉄道に鉄軌道事業が継承されました。
現在京福電気鉄道には、8形式28両の営業用車両が在籍しています。そのうちのモボ101形は1929年に製造されたものを、1975年に当時の新型であったモボ301形と同等の車体に更新したもので、6両が在籍しています。
写真の105号は、1975年6月に武庫川車両で車体更新を行いました。1989年に冷房改造を行っています。また現在はパトカー色のパトトレインとして活躍しています。もちろん機能的には通常の電車で、パトカーとしての機能があるわけではありません。
【撮影:佐野次郎 2015.5.18 太秦広隆寺ー帷子の辻間】

2015/06/17

京都市電2000形(2001号)

京都市電2000形電車は、1964年から65年にかけて6両が製作され、京都市電としては最後に新製された電車になります。
ラッシュ時は2両連結運転を行い、ラッシュ時以外は単行ワンマンカーとして運転されるという画期的な電車で、路面電車としては珍しく小型密着連結器を装備した総括制御車両でした。背景には京都市電ではラッシュ時には大きな輸送力を必要としましたが、日中には連節車や大型車を投入するほどの需要がないことがありました。
2000形は当初20両の新製を予定していましたが、6両だけの製作にとどまり、以後の改造ワンマンカーの試作車のような車両となりました。600形を大改造した2600形18両とともに烏丸車庫に配置され、毎朝ラッシュ時に乗務員3名による連結運転が行われました。1971年3月に連結運転が中止され、以後、連結器は取り外されました。
写真の2001号は1964年1月にナニワ工機で完成したものです。1977年9月の河原町線廃止に際して廃車となりました。昨年3月から梅小路公園で案内所として使用されています。2002~2006号は伊予鉄道に譲渡され、現在も現役車両として使用されています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/06/16

京都市電900形(935号)

京都市電900形は、1955年から57年にかけて35両が製造されました。800形の拡大改良型ともいうべき電車です。
細かいところは変わっていますが、京都市電の電車は600形以来、1000形、800形、900形とほぼ同じ顔つきをしていますね。900形がその600形によって確立された「京都市電スタイル」の完成形といえる電車でしょう。
900形のうち916号から931号は、1970年に大阪車輌工業でワンマンカーに改造され、1900形になりました。1972年10月に、1922号が事故廃車になりましたが、1977年に廃車となった2両が広島電鉄に譲渡され、京都市電全廃まで残った13両も広島電鉄に譲渡されました。大事に使用され、今でも現役です。
写真の935号は、1957年9月に日本車輌で完成したもので、900形のラストナンバーに相当します。ワンマンカーへの改造からは漏れましたが、1974年に廃車になるまでツーマンで日中も運用されたそうです。昨年から梅小路公園の京都水族館前で公開されています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/06/15

京都市電800形(890号)

京都市電800形は、1950年から55年にかけて90両が製造されました。戦前から増備の続いた600形では輸送力が小さく、また大型の1000形ではデータイムの輸送力が過剰になることから、中型の800形は使いやすい車両だったそうです。
1968年から800形のうち70両が、ワンマンカーに改造され、1800形に改番されました。前照灯は2灯になり、乗降扉は前中の2扉に改装されました。
1800形は、900形をワンマンカーに改造した1900形とともに1978年の京都市電全廃まで活躍しました。小生も母の実家のあった京都に、この車両を利用して訪問しました。吊り掛け駆動のモーター音が記憶に残ります。
写真の890号は、1955年12月にナニワ工機で完成したものです。ワンマン化の対象から外れ、1974年4月の烏丸線廃止に際して廃車となりました。保存車として保管され、昨年から「市電ひろば」で公開されています。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/06/07

京都市電700形〈703号〉

700形電車は戦後京都市電が、800形・900形と発展させてきた近代化装備を継承しつつ、軽量化など新技術を取り入れて1958年から62年にかけて48両が製作されました。4枚折戸とした乗降扉が最大の特徴でしょうか。
せっかくの新鋭電車でしたが、軽量構造が災いして乗降扉の移設が困難なことからワンマンカーへの改造対称から外れ、最終増備車などは10年も使用されずに廃車になってしまいました。前後2扉の1600形が使いづらいと乗務員から不評だったので、800形を改造した1800形、900形を改造した1900形は前中2扉に改造されていますね。
写真の703号は、1958年3月にナニワ工機で完成したものです。1974年4月の烏丸線廃止時に運用を退き、廃車となりました。保存車に選ばれ、原則非公開で保存されてきましたが、2014年3月から「市電ひろば」で公開されています。
「市電ひろば」では、鉄道グッズを販売する売店として使用されています。あくまで個人の趣味ですが、鉄道グッズは面白いですけど、実際に購入しようとまで思えるものにはなかなかめぐり合わないですね。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/06/06

京都市電1600形〈1605号〉

京都市電1600形は、600形のうち63両を1966年から68年にかけて、ナニワ工機・大阪車輌工業・交通局壬生工場でワンマンカーに改造したものです。前照灯が2灯化されたので広島電鉄に譲渡され、いまなお現役として活躍する1900形と似通ったイメージの電車であります。
原型式の600形は、1937年から47年にかけて95両が製作されたもので、京都市電を一挙に近代化し、「青電」と呼ばれて京都市電を代表する車両でありました。同時代に製作された電車には、横浜市の1100形や神戸市の700形など、なかなか水準の高い電車が揃っていたような感がありますね。
同じ600形を元形式として、ラッシュ時には2両連結で大量輸送に対応し、データイムにワンマンカーとして効率化を図る2000形に近い内容に大改造された2600形が18両登場しましたが、1600形は合理化に重きを置いて、改造内容も簡素化されています。背景には京都市の財政再建を強く迫られていたという事情がありました。
写真の1605号は、600形607号として1937年に日本車輌で完成しました。1966年12月にナニワ工機でワンマンカー化改造され、1600形1605号に改番されました。1976年4月の今出川・丸太町・白川線の廃止と同時に1600形は全廃になりましたが、1605号は保存車として残されております。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

2015/05/23

京都市電500形(505号)

京都市電500形は、1924年から28年にかけて40両が製造されたものです。京都市の発展を背景として市電の輸送力増強を図るため、京都市電としては初めてのボギー車となりました。
500形は全長13.5mの箱型車体を採用し、乗降扉を三か所に設けています。せっかくの大型車でしたが、戦前の不況により輸送力過剰となり、1935年から36年にかけて514号~517号の4両が中型ボギー車に改造され、514形となりました。
戦後は1949年に登場した1000形とともに、大きな輸送力を活かしてラッシュ時を中心に活躍しました。伏見・稲荷線では入線可能な最大車両であったことから日中も重用されました。1968年から廃車が始まり、1970年3月の伏見・稲荷線の廃止に際して全廃となりました。
写真の505号は、1924年2月に田中車両で完成したものです。廃車後は京都市交通局により通常非公開で保管されていましたが、2014年3月から梅公路公園内の「市電ひろば」で公開されています。公開と同時に「市電カフェ」に改装されました。
【撮影:佐野次郎 2015.5.19】

嵐山線6300系〈6352F〉

阪急電鉄6300系は、2800系に代わる京都線の特急用として、1975年から1978年にかけて64両〈8両編成8本〉が製造されました。さらに1984年には増備車として6330番台1編成が製造されました。2扉・転換クロスシートという珍しい構成の電車です。
2001年3月のダイヤ改正から京都線の特急の停車駅が増加するとともに、10分間隔に増発されるようになり、6300系だけでは特急運用を賄えなくなりました。そのため後継となる3扉の9300系が導入されました。
6300系は基本的に廃車となりましたが、一部車両に関しては嵐山線に転用され、2300系を代替することになりました。3編成を4両編成に短縮して、座席に関しても配置を変更しています。その他にも「京とれいん」に1編成が改装されました。
写真の6352Fは、1976年9月にアルナ工機で製造されました。2009年4月に嵐山線対応工事を完了しています。側扉の窓が天地方向に拡大しているのが目を引きますね。
【撮影:佐野次郎 2015.5.18 桂駅】

2015/05/10

京浜急行2100形(2133編成)

京浜急行2100形の2133編成は、今年の3月から2157編成に代わる二代目KEIKYU BLUE SKY TRAINとして営業運転に就いています。
2014年9月に京急ファインテック久里浜事業所に入場して、更新工事とVVVF機器の換装工事を併せて施行し、行先表示のLED化も行われました。2100形では本編成を最後にして、歌うような音階を奏でるシーメンス社製のVVVF機器は姿を消しました。
先代のKEIKYU BLUE SKY TRAINであった2157編成が、入れ替わりに京急ファインテック久里浜事業所に入場しました。こちらは一般色になって出場することになります。入場前にVVVF機器は更新されており、行先表示もLEDになっていますので、更新工事のみの施行と思われます。
写真の2133編成は1998年10月に東急車輛で完成したもので、2100形の2次車に相当します。前述の通り、2015年3月に更新工事を終えています。
【撮影:佐野次郎 2015.4.19 追浜ー京急田浦間】

2015/05/06

京浜急行2100形〈2109編成〉

京浜急行電鉄では、主に泉岳寺駅発着の快特に使用している2100形が、製造後約15年を経過したことから、車体と機器のリニューアルを行う更新工事を進めております。
外観よりも車内での変更点が目立つようで、照明は省エネに貢献できるLED照明となり、車内の案内表示は17インチのLCD式になっています。その他、車端部の側窓が開閉可能になりました。
走行機器の更新については、2008年度から既に進められており、新製当時の特色であった外国製品による歌うような音階を奏でる走行機器も国産製品に換装されています。
写真の2109編成は1998年3月に川崎重工で完成したもので、2100形の1次車に相当します。2009年12月に機器更新を受け、2014年3月に更新工事を完了しています。さらに2015年1月には、正面の行先表示を方向幕からLEDに換装しています。
【撮影:佐野次郎 2015.4.19 京急田浦ー追浜間】

2015/05/02

京浜急行600形(607編成)

京浜急行600形は、1994年から96年にかけて88両(8両編成×8本、4両編成×6本)が製造されました。製造当初は特別料金が不要な通勤電車には珍しいクロスシートを採用しておりました。快適な通勤をめさぞうという意図があったようですね。
また2100形・二代目1000形と続く現代の京急電車のスタイルを確立した電車でもあり、比較的少数派の形式でありながら、京急ファンには人気のある電車ですね。今では二代目1000形のアルミ車とほとんど同じスタイルに見えますが、側窓と外板がフラットでなかったり、集電装置が菱形のパンタグラフであったりと年代による差異はあります。
現在では、全車の更新工事が完了し、扉間が一般的なロングシートに換装されています。やはり首都圏の混雑では、立席の収容力が限定されるクロスシートはきついのでしょう。また前面には形式名「600」の切り欠きが設けられています。
写真の607編成は1995年6月に川崎重工で完成したものです。2007年7月に京急ファインテック久里浜工場でロングシート化改造を受けております。また前面の方向幕はフルカラーLEDに換装されています。
【撮影:佐野次郎 2015.4.19 京急田浦ー追浜間】

2015/04/19

京浜急行600形(604編成)

昨日に続いて今日も撮り鉄に出かけて参りました。撮り鉄に出かけるのはずいぶんと久しぶりのような気がしまして、前回いつ行ったかを調べてみると、昨年の5月でした。
小生としてはずいぶんと長い休車期間だったような気がします。昨年の8月に結婚してから、炊事や洗濯が楽しく、家内が仕事のことが多い土曜日もついつい昼ビールを楽しむことが多かったのです。
かくいう小生もようやく重い腰を上げて、昨日撮り鉄に出かけたのでした。久々の京急も、大枠は変わりませんが、2100形の更新工事や600形の前面行先表示のLED化が進んだりと小変化は確実に進んでいますね。
写真の604編成は1995年3月に川崎重工で完成したものです。2006年11月に京急ファインテック久里浜工場でクロスシートをロングシートに改造しています。2012年3月に更新工事を完了しています。
【撮影:佐野次郎 2015.4.19 京急田浦ー追浜間】

多摩川線7700系(7912F)

東急電鉄の7700系電車は、1987年から91年にかけて先代7000系の車体を再利用して、電装品・台車を更新し、冷房改造してできた系列です。改造当初は大井町線でも使用されました。
1989年には全車がホームの4両編成対応化工事の完成した目蒲線に集中配置され、7700系は56両(4両編成14本)となりました。
さらに池上線のワンマン化のため、1995年から96年にかけて7912Fから7914Fの3編成が、3両編成に短縮されてワンマン運転用の機器を増設した上で目蒲線から池上線に転用されました。1996年には中間車から7915Fが組成されています。
2000年8月に目蒲線が目黒線と多摩川線に分離されたため、7700系は45両(3両編成15本)に組成され、池上線と多摩川線で共通運用されるようになりました。新型7000系や1000系1500番台の投入により、7700系は7915/13/08/10/07Fの5編成が既に運用を離脱しています。
【撮影:佐野次郎 2015.4.18 沼部ー鵜の木間】

2015/04/18

多摩川線1000系1500番台(1501F)

今日は私としては久々に電車の撮影に出かけてきました。お目当ては東急池上線・多摩川線に昨年登場した1000系1500番台です。
1000系1500番台は、周知の通り、東急東横線と営団地下鉄→東京メトロ日比谷線の相互直通運転に使用されていた1000系を池上線・多摩川線に転用した車両ですね。
同じ1000系でも以前から池上線・多摩川線で使用されている車両は赤帯ですが、1500番台は新型7000系にあわせた緑の帯を巻いているのが面白いですね。
写真の1501Fは、1988年12月に東急車輌で完成した1001F8両編成のうち3両を、2014年3月に総合車両製作所横浜事業所で改造したものです。ワンマン運転用の機器を増設し、車内のデザインも7000系にあわせて改装しております。
【撮影:佐野次郎 2015.4.18 沼部ー鵜の木間】

2015/03/28

113系初期型

3月14日に上野東京ラインが開業し、大きく姿を変えた感じのある品川駅ですが、写真を撮影した1984年頃には、東海道線にクーラーのない電車が一部走っていたのでした。いまから30年以上のことになるわけですね。
いわゆる湘南電車として知られていた113系近郊型電車の初期型ですね。このタイプの電車は東京ー大船間で東海道線と横須賀線が線路を共用して頃に、湘南色とスカ色の電車が編成中に混在していたなんてこともあった頃からある車両でした。
屋根上の通風器が103系などと同じくグローブ型だったのも特徴ですね。後年の車両は押し込み型になっていますので、区別は容易でした。冷房のない電車が走っていた頃の日本は、夏.も今よりも涼しかった気がします。
写真のような初期型はJRへの移行前に姿を消したように記憶していますが、長い間製造された113系は2006年3月まで東海道線を走りました。今では4ドアのE231系・E233系が活躍し、東海道線も上野東京ライン・湘南新宿ラインに進化しました。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 品川駅】

2015/03/14

EF65形1000番代(1097号)

今日は北陸新幹線が金沢まで開通し、上野東京ラインも開業するという記念すべきダイヤ改正の日ですが、私なんかは3月14日のダイヤ改正というと国鉄時代の1985年3月14日のダイヤ改正を思い出してしまいます。
そんな訳で、今日も実際にダイヤ改正後の変化を確かめるために撮影に出かける訳でもなく、自宅からのんびりとブログを更新することにします。今日の写真は品川駅で撮影した、当時東京機関区に配置されていたEF65PF形です。
今では「サンライズ・出雲・瀬戸」を除いて全廃になってしまった東京発の寝台特急ですが、写真を撮影した1984年には、「さくら」「はやぶさ」「富士」「みずほ」「あさかぜ」「出雲」「瀬戸」が運転されていて、すべてEF65PF形が牽引していたのです。
写真のEF65形1097号機は、1978年6月に川崎重工・東洋電機で完成し、東京機関区に新製配置されました。1985年3月には、大半の寝台特急の牽引機関車を下関運転所のEF66形に置き換えるとともに東京機関区の配置をなくしたので、新鶴見機関区に転属となりました。JR貨物に継承されて貨物列車の牽引に活躍しています。2097号に改番され、健在です。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 品川駅】

2015/03/07

EF58形(141号)

東京ー上野間を結び、東海道線・宇都宮線・高崎線・常磐線を直結する上野東京ラインの開業も3月14日と目前に迫りました。次の土曜日にはめでたく開業というわけですね。
常磐線との直通列車は品川まで乗り入れることになりますが、品川駅も激変しています。かつての東京機関区・品川客車区・田町電車区の三大車両基地を車両を擁していた威容は、電留線だけの控えめな姿となりました。むしろ品川駅構内の駅ナカの賑わいや、車両基地の跡地の再開発を通じて鉄道業の枠を越えて都市そのものとして発展している感じがします。
写真を撮影した1984年頃の品川駅は、三大車両基地は健在で、ブルートレインや185系の特急「踊り子」はもちろん、183系の特急「踊り子」や入換用のDD13形ディーゼル機関車やときどき姿を現すEF58形電気機関車なども普通に撮影できました。
写真のEF58形141号機は、1958年3月に日立製作所で完成したもので、山陽本線の大阪ー姫路間、東北本線上野ー大宮間電化開業用として製作されたグループのうちの1両です。写真撮影当時は宇都宮運転所に所属していました。廃車は1986年3月で、最終配置は田端運転所でした。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 品川駅】

2015/02/22

EF65形〈1009号〉

この写真は尾久駅のホームから、EF65形1009号機が牽引する寝台特急「あけぼの」を撮影したものです。当時の寝台特急「あけぼの」は、上野ー青森間に2往復、上野ー秋田間に1往復が運転されていました。機関車にはヘッドマークをつけていませんね。
EF65形1000番台(PF形)は、旅客列車・貨物列車の牽引に使用できる汎用型として、1969年から1979年にかけて8次に渡って139両が製造されました。今までのEF65形一般型、500番台旅客用(P形)、500番台高速貨物用(F形)を統合した存在ということができますね。
宇都宮運転所→田端機関区配置のEF65形1000番台が「あけぼの」を牽引していたのは、上野ー黒磯間で、1970年10月の運転開始から1993年12月のダイヤ改正まででした。1988年3月には1往復が削減され、1990年9月には山形新幹線着工の影響で、1往復が上越線・羽越本線経由の「鳥海」と改称されました。
写真の1009号機は1969年10月に川崎重工・富士電機で新製され、新鶴見機関区に配置されました。その後、宇都宮運転所→田端機関区→稲沢機関区→新鶴見機関区→岡山機関区→高崎機関区→岡山機関区と転属しました。2007年7月に廃車となっております。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/21

EF58形(154号)

今から30年前に撮影した鉄道写真ともなりますと、撮影したものすべてが貴重な記録になっているような感じがします。上野から東北本線の次の駅である尾久駅で、EF58形電気機関車が普通に撮影できたのです。
EF58形電気機関車といえば、いわゆる旧形電機の最後の形式で1946年から48年にかけて31両がデッキ付きの姿で製造されたのち、1952年から58年にかけて設計を変更して新しいデザインとなりあわせて172両が製造された機関車ですね。
東海道・山陽本線をはじめとして、東北本線・上越線など直流電化された主要路線では、看板となる特急列車の牽引に活躍しましたが、写真を撮影した頃には、もうブルートレインの牽引などの第一線からは退いた頃だったと思います。
写真の154号機は、1958年4月に東京芝浦電気で完成したもので、EF58形としては12次の増備車両です。東京機関区に新製配置されましたが、撮影当時は宇都宮運転所に配置されておりました。1985年9月に廃車されましたが、最終配置は田端運転所です。現在は前頭部だけが大宮車両センターで保管されているそうです。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/15

モハネ582-30

日本で初めての座席・寝台両用の寝台電車として、1967年に581系が登場しましたが、1968年10月のヨン・サン・トウダイヤ改正に際して増備されるときに、直流・交流50Hz・交流60Hzの3電源に対応できる583系に移行しました。
こうして登場したのが、モハネ582・583形電動車です。制御車のクハネ581、食堂車のサシ581は共用となり、増備が継続されました。さらに1970年には15両編成化を意図して電源供給能力の強化を図った制御車クハネ583形が登場しました。東北方面では先頭にこの形式が使用されました。
この寝台電車である583系は、腰高で独特なスタイルで、私もたいへんに魅力を感じます。実車も模型も非常に人気がありますね。私はKATOのNゲージを持っています。サロ・サシを組み込んだ8両編成です。
写真のモハ582-30は、1968年9月に汽車製造で完成し、青森運転所に新製配置されました。1987年2月に廃車となっています。国鉄の分割・民営化直前に廃車となったわけですね。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/14

サロ581-6

サロ581形は、1968年10月のダイヤ改正に合わせて、モハネ582・583と同時と登場した形式です。寝台兼用ではなく、座席専用のグリーン車でした。既存の581系には、昼間の座席使用時には向かい合わせの普通車しかないのは当時の特急としては見劣りがしたということで投入された形式です。
車内は485系のグリーン車であるサロ481を基本とした構成で、リクライニング式の腰掛も同じものでしたが、車高を他車とあわせていたので車内は天井が高く開放感のあるものだったそうです。
腰掛一つに窓一つという構成でしたので、側面は小窓がならぶ特徴のある外観となっていました。そのため編成中のアクセントになっておりました。なお窓は他の形式と同じくブラインドを組み込んだユニット窓でした。
写真のサロ581-6は、1968年9月に汽車製造で完成し、青森運転所に新製配置されました。1998年11月に廃車されましたが、青森運転所に継続して配置されておりました。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/11

サシ581-6

サシ581形は581・583系の食堂車で、35両が製造されました。車体の断面を他の車両とあわせていますので、客室は天井が高く開放的な車内となっていたそうです。これはブルートレインに組み込まれていた食堂車と同じ特徴ですね。
この写真を撮影したときに私は中学生でしたが、実は形式写真を撮ろうとしたのであります。「国電全百科」という文庫サイズの子供向けの鉄道書があり、その本は国鉄電車の形式写真で構成されたもので、それを真似しようとしたのです。
カメラは父のニコマートというニコンの銀塩一眼レフカメラを借りました。シャッタースピード、絞り、露出、ピントがマニュアルでした。台車など下回りは思いっきりつぶれてしまっています。でもまあ記録が残っているだけでもよしとしようと思います。
写真のサシ581-6は、1968年6月に日本車両で完成し、青森運転所に新製配置されました。同年10月のダイヤ改正で上野ー青森間の特急「はつかり」、寝台特急「はくつる」「ゆうづる」の電車化に充当されました。1985年3月のダイヤ改正で編成から外されたあと8月に廃車され、仙台市青葉区で電車喫茶ウィンズとして使用されたそうです。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/08

583系特急形電車 寝台特急「ゆうづる」

写真は1984年頃、東北本線の尾久駅で撮影した青森運転所所属の583系電車です。なんと堂々の13両編成で、今では見ることのできない長大編成です。上野ー青森間を常磐線経由で結んでいた寝台特急「ゆうづる」の上り列車が営業運転を終えて折り返すところですね。
当時は東北・上越新幹線の始発駅が大宮で暫定開業した直後で、上野ー大宮間は185系の「新幹線リレー号」で結んでいた時期です。「つばさ」「やまばと」「鳥海」など上野始発の特急も暫定的に1本ずつ?残り、さらに急行列車もある程度残されておりました。
当時私は中学生で、新幹線の開業によって在来線の特急が減ったように思っていたものですが、今考えるとずいぶんと被写体に恵まれていたことを痛感します。土曜日には授業がありましたので、日曜日の早朝に出かけていたのですが、他に写真を撮っている人も見かけませんでした。
青森運転所の583系は1985年3月のダイヤ改正で、食堂車のサシ581を編成から外して基本編成が9両に短縮されました。JR東日本に継承された寝台特急「ゆうづる」は、1993年12月に定期列車としての運転を終えています。
【撮影:佐野次郎 1984年頃 尾久駅】

2015/02/07

横浜線の205系電車

横浜線の205系電車は、2014年2月からE233系6000番台による置き換えが始まり、2014年8月には営業運転を終えました。28編成がわずか半年で新型に置き換わったのですから、JR東日本の新型車両の投入のスピードはやはり凄いものがありますね。
横浜線の205系電車は、1988年9月に営業運転を開始しました。このときは翌年2月までに7両編成25本が投入されて、103系電車を置き換えました。205系は投入されるときも、置き換えられるときも半年間という短い間に行われたのです。
横浜線に205系が入った頃は、現在よりも根岸線への直通運転の本数が多く、日中はかなり利用する機会がありました。当時京浜東北線は103系がほとんどで、205系は車内が明るくていい電車だと思っていました。1989年には少数の205系が京浜東北線に投入されたのですが、6本までしか増えませんでしたね。
写真を撮影したのは1993年、オリジナルスタイルを維持しています。置き換えの頃には、6扉車が増結され、行先表示はLEDになり、列車種別表示機は使用しなくなり、前面にはスカートが付き、パンタグラフがシングルアーム式に換装されたりと、細部には様々な変化が見られました。
【撮影:佐野次郎 1993.3.28 山手駅】

2015/01/31

根岸線の103系電車

私にとって一番身近な電車といえば、根岸線を走っていたスカイブルーの103系電車ですね。なんといっても最寄りの路線を走る電車で、ものごころがついたときに走っていた電車でしたから。根岸線に103系が投入されたのは、1965年からでした。当初は8連で、その後7+3の10連に増強されました。
車内は緑色の壁にブルーのシートで、今の電車みたいに明るい車内ではありませんでした。クーラーもありませんでした。子どもの頃、根岸のマンモスプールで遊んでいると築堤を走る姿がよく見えたのも印象に残っています。
1974年からは写真のようなATC対応型の運転台の高いタイプの先頭車両が投入され、冷房車も増えていきました。それでも編成中に古いタイプの車両が混じっていたり、運転台が中間にあるために通りぬけできない編成もかなりありました。
1989年には、205系が4編成だけ投入されました。さらに1992年からは後継となる209系電車が投入され、103系の置き換えが始まりました。1997年には京浜東北・根岸線の電車は209系に統一されました。現在ではさらにその後継のE233系1000番台に置き換わっています。
【撮影:佐野次郎 1993.3.28 山手駅】

2015/01/25

鴨居レイアウト

今では時間がとれなくて静態保存状態になっておりますが、私もNゲージを学生の頃からコレクションしておりました。
実家の6畳間で最初はお座敷運転をしており、確か1992年3月の就職直前に鴨居に棚を取り付けて、鴨居レイアウトを完成させたのでした。
単線のエンドレスに、ヤードという構成で、走りに徹し、シーナリーなどにはいっさい手をつけていないようなものでした。レールはKATOのユニトラックを使用していました。
この鴨居レイアウト、私が1994年に実家を出て一人暮らしを始めるとともに廃線となってしまいました。

2015/01/24

EF65形F型(534号)

根岸線の桜木町ー根岸間には、けっこうな本数の貨物列車が走っております。牽引する機関車も複数の形式が走り、EF210形を中心として、EF64形1000番台、EF65形PF型、EF66形、EF200形、EH200形を見ることができます。
写真を撮影した93年頃は、EF65形がほとんどで、一般型、P型、F型、PF型を見ることができました。JR貨物の更新塗装に塗り替えられた車両も走っておりました。
根岸線の貨物列車といえば、私にはEF15形の印象が強く、EF65形は新しい部類に思っていましたが、今となってはEF65形F型はむろんのこと、後ろの貨車も見られないものばかりですね。
写真の534号は、1966年10月のダイヤ改正で設定された東海道・山陽本線の高速貨物列車牽引用として、1966年8月に東芝で新製されたF型第3次量産機3両のうちの1両です。1996年1月に廃車されました。
【撮影:佐野次郎 1993.3.28 山手駅】

2015/01/10

広島電鉄1900形〈1910〉

このところインフルエンザが流行しているそうです。私も撮影に出よう出ようとは思っているのですが、なんだかんだと理由をつけては休日は家にいることが多くなっております。
それにしてもインフルエンザはやっぱり気になりますね。外に出ると咳をされている方もたくさんおられます。症状がきつくてかかるとたいへんですし、仕事に穴をあけるのは避けたいところです。
私は通勤時間が約2時間と長いですから、マスクは必ず着用して、うがい・手洗いもやっています。また睡眠時間を確保して疲れを溜めないように心がけています。
そんな訳で今週も過去のストックより更新します。広島電鉄の1910号(もと京都市電1900形)です。このカラーは京都市電時代とほぼ同じですが、やっぱりいいですね。
【撮影:佐野次郎 2013.9.11 天満町ー小網町間】

2015/01/03

京浜急行600形〈607編成〉

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。早いもので当ブログも足かけ7年目を迎えることになります。
鉄道趣味にもさまざまなスタイルがありますが、私は車両研究と撮り鉄がメインになります。あとは乗り鉄と模型を少々といったところです。
結婚したことで独身のときよりも家事をするようになり、以前のように毎週撮り鉄に出かけることは難しくなりましたが、できれば月に1~2回、首都圏の電車を中心に撮影を再開したいと思っています。
なかでも京急・東急・相鉄は定期的にフォローしたいですね。写真の607編成は1995年6月に川崎重工で完成したものです。2007年7月に京急ファインテック久里浜工場でロングシート化改造を受けております。
【撮影:佐野次郎 2014.3.16 四ツ木ー立石間】